フォノトグラフの



*2005年



 汗がにじむほど暖房の効いた飛行機のシートで、私は菜々海(ななみ)のことを考えていた。私の部屋でビールを飲みながらドラマに感情移入する彼女の水っぽい瞳と、うつむいたときに長い髪の間から剥き出される白い首筋。幻影を振り払って窓の外へ目を向けると、泡立てたクリームのような雲の切れ目から群青色の北極海が見えた。
 冬季休暇は氷樹の森に行ってみるんだ、と打ち明けた途端、菜々海の表情が変わった。
「弟のことでお願いがあるの」
 私は菜々海にまつわるすべてのものに嫉妬して生きている。菜々海の彼氏、菜々海の同僚、菜々海の両親。弟の話ははじめてだった。世の中に嫉妬するものが一つ増えた。
 菜々海の弟は、昌人(まさと)という名前なのだという。大学三年生。バイトで溜めた金をはたいて旅行に出たと思ったら、氷樹の森へ行ったまま三ヶ月も帰ってこない。なにかの事故に巻き込まれたわけではなく、ただ、本人の意志でその場へとどまっているらしい。菜々海が電話でいくら問いかけても、帰ってこない理由がはっきりとしない。
 ほんとうは菜々海が直に様子を見に行きたいところなのだが、彼女の務めるイベント会社にとって世間が休みの時はすなわちかき入れ時で、休暇がまったく取れないのだという。具合だけでも見てきて欲しい、と私は熱心に頼まれた。
 氷樹の森へは、私たちの住む国からだいぶかかる。まず飛行機で六時間飛び、北国の空港を一つ経由して、また四時間飛ぶ。北極海のただ中に浮かぶ、スノーランドと呼ばれる大きな島。そこに、この世でもっとも奇妙な森はある。
 飛行機が島の上空にさしかかった。雲が切れる。スノーランドは島の八割が万年雪に覆われていて、人間はかすかに地面の色がのぞいた沿岸部のフィヨルド沿いに、へばりつくようにして住んでいる。雪に覆われた山岳地帯は上空から見ると目が眩むほど白く、山の裾を囲むようにして、独特の燐光をまとった青い氷樹の森が広がっている。
 スノーランドに、人口百人以上の町は両手で数えられるぐらいしかない。島の最南端、スノーランド空港を擁するカーゴ町のその日の気温は氷点下だった。私はヨーロッパから来たらしいツアーの団体客にまぎれてタラップを下りた。いちばんぶ厚いダウンジャケットを着込んできたものの、頬や首筋を撫でる冷気がナイフのように鋭い。マフラーを持ってくれば良かったと後悔しながら、私はトランクを引いてちいさな空港のロビーへ向かった。
 ロビーの待合室の人影はまばらだった。毛糸のキャスケット帽を被った青年が、私の顔を見て立ち上がった。背が高くて、薄い身体つきをしている。
「穂塚日奈子さん?」
「はい」
「古賀昌人です。姉から穂塚さんのことを聞いて、お迎えに来ました」
 なんどもなんども練習したような、揺れのすくない口調だった。ニィ、とぎこちなく口角を上げ、昌人くんは私のトランクを持って先導するよう空港を出た。
 人気のないさびれたロータリーには、小雪にまみれたグリーンのミニバンが待っていた。
「昌人くんの車なの?」
「いえ、泊まっているロッジの車を借りてきました」
 トランクを後部座席に積み込み、昌人くんは運転席へ入った。私も助手席へすべり込む。だいぶ古いタイプのバンは扉が薄く、閉じるとぱん、と平たい音がした。
 車の中も、寒い。昌人くんがドアポケットから引っ張り出した膝かけを渡してくれた。雪に染まった太い通りを、ゆっくりと発進する。前には観光バスが走っていた。同じ目的地へ向かうのだろうか。空港を囲む小さな町の、目が覚めるようなコバルトブルーやサーモンレッドで塗られた家々が遠ざかる。
 昌人くんに、聞かなければいけないことがたくさんあった。菜々海からたくされた、電話ではうまく聞けないのだという、たくさんの質問。私はなんだかそれを彼に投げつけるのがひどく億劫になって、口を閉ざしたまま青い森を抱いた山並みを眺めた。
「迎えに来てくれてありがとうね」
「いえ、そんな」
 柔らかく会話が途切れる。昌人くんの口元には中途半端な微笑みが残っている。どのタイミングでそれを消せばいいのか、わからなくなったような顔だった。あんまり目を向け続けるとなんだか昌人くんを傷めてしまうような気になって、私はまた窓の外へ目線を逃がした。海が見える。夏だというのに、溶け残った海氷が波間へまばらに浮かんでいた。海は穏やかな午前の日射しに透き通り、覗き込めば覗き込むほど海の底へと招かれるような恐ろしく深い青色をしていた。
「きれいなところだね」
 呟くと、昌人くんがはい、と静かに答えた。



 青い森の麓にある三階建ての大きなロッジの前には、先に出発していた団体客のバスが止まっていた。昌人くんはロッジの裏手のガレージへバンを止めた。また私のトランクを持ってくれる。私はお礼を言って、踏み固められた雪につるつると足を取られながら昌人くんに続いてロッジへ入った。
 薪ストーブが効いた室内は頬へ熱気を感じるほど温かかった。気温差に、凍えた耳がじんじんと火照る。ロッジのフロントでは、飛行機で乗り合わせた二十人ほどの団体客が思い思いに散らばってツアーガイドの女性から部屋のキーを受け取っていた。私は玄関のラグで靴の雪を落としてから、団体客の間を縫ってフロントへ向かった。大柄で青い眼をしたロッジのご主人に予約していた名前を告げる。
 私のそばにトランクを置く昌人くんを見てご主人は、マサト、昼飯の支度が遅れてるんだ、ローラを手伝ってくれないか、と早口の英語で言った。昌人くんはあっさり頷いてフロントのカウンターテーブルをくぐり、奥の部屋へと入っていく。ご主人は改めて私の顔とパスポートを見比べ、焦げ茶色の髭に埋もれた口角を持ち上げて笑った。
『ヒナコ・ホヅカ。マサトの知り合いなんだって?』
『はい、マサトの姉が私の友人です』
 正しくは、私が昌人くんと会ったのは今日が初めてだが、細かい違いを英語で言い表すことが出来ず、私はあいまいにイエス、と笑った。トロイと名乗ったご主人は何度か頷き、ルームキーを渡してくれる。
『若い女性が一人でここを訪ねてくれるとは嬉しいね。良い思い出をたくさん作ってくれ。一時間後に、談話室で私が森の説明をする。それまでは部屋で休憩していてくれ』
 私のルームキーには305、とナンバーがふってあった。トランクを手に、階段を上がる。ニスの光る木造のロッジはすみからすみまで丁寧に清められ、窓辺やテーブルに飾られたポプリから清潔な甘い匂いがした。
 たどりついた部屋は六畳ほどの大きさで、板張りの床の上に毛足の長いラグが敷かれていた。羽布団のかけられたこんもりと厚いベッドと、着替えなどをしまえるキャビネット、丸いランプと小さな机が並べられている。テレビやラジオなど、音の出るものは一切無い。机の上には、簡単な筆記具とレターセットが置かれていた。この島から故郷に手紙を書く人が多いのだろう。右手の扉を開くと、トイレが併設されたちいさなシャワールームがついていた。
 窓の外には青く透明度の高い氷樹の森が一面に広がっていた。私はトランクを開けて荷物をほどいた。着替えをまとめてキャビネットへしまい、雪を積み上げたようなベッドへ腰を沈めた。
 寝転がる。手を伸ばしてベッドの奥の板壁へ触る。おそらく壁の裏側にストーブで温められた温水のパイプが通っているのだろう。予想通り、ほのかなぬくもりがあった。
 三十分ほどしたところで、昌人くんが紅茶のトレイを持って訪ねてきた。
「トロイから、ウェルカムサービスです。紅茶にはブランデーが入ってます。小皿のジャムは苺とブルーベリーです。好きな方を混ぜて飲んでください」
「ありがとう」
 紅茶セットを机へ置いて、昌人くんは浅く会釈をした。そのまま部屋を出ようとする。
「昌人くん、トロイさんのところでバイトしてるの?」
 昌人くんは足を止めて頷いた。
「手伝う代わりに、食事代を免除して貰ってるんです。金ないんで、俺」
「菜々海が、心配してたよ」
 ようやく言わなければいけないことのかけらを口にする。昌人くんは眉を下げて苦く笑い、三十分後に談話室にいらしてください、と言葉を足して部屋を出て行った。



 氷樹の森は、二百年ほど前からすこしずつ発生し始めたのだという。起源はよくわかっていない。寒冷地の木々の突然変異とも、温暖化防止のためにどこかの国が作った人工樹木のサンプルが投棄されたものとも、いちばん突飛な説では、宇宙からの落とし物とも言われている。説は多彩で、どれも確定打には至っていない。氷樹は、凍りついたように固く冷たい幹を持つ木で、普通の木々ならば生きることの出来ない極寒地でよく育つ。全体的な形状は杉に似ているが、葉のかたちは丸いもの、鋭いもの、糸状のもの、と様々だ。葉はまるで霜と氷の粒を織り交ぜたような結晶状で、触れると体温に負けてじわりと溶ける。樹木全体が微弱な冷気を発しており、平均気温が零度を超える場所に株を移すと、あっというまに枯れ崩れてしまう。
 この森のいちばん特殊な点は、「音を吸う」ということだ。周囲の物音を、雨の音を、風の音を、人の足音を、鳥獣の鳴き声を、吸う。そして、ずっとあとになって、そっと吐き出す。吸った後、どのくらいの時間が経って吐き出すのか、規則性は確認されていない。ただ吸って、何分か何日か何年か経ったあとに、ひそやかに吐き出す。木によって好みの音があるのか、いろいろな音色を聞かせても決まって同じ音色のみを吸って発する個体もある。複数の木が、まるでハーモニーを楽しむように一定時間同時に違った音を鳴らしていることもある。吸い込んだ音によって、葉の形状が変わるらしい。発見からだいぶ年月が経ったにも関わらず、世界最大規模の群生を持つスノーランドの氷樹の森は九割が研究用に保護されており、残り一割がここのロッジのように認可を受けた施設の保護下に置かれ、観光用に開放されていた。
 フロントの奥に位置する談話室では、暖炉の火が赤々と揺らめいていた。色硝子がはめ込まれた二重窓に、雪の影が映っている。私は空いたソファに腰を下ろして、トロイさんを待った。談話室には、ずっと一緒に移動してきた団体客の他にも、数組の旅行客が集まっていた。アジア系の外見をしているのは私だけだった。
 トロイは時間通りに現れた。談話室の真ん中に立ち、室内にそろった全員を見回して、雪が弱まってきたよ、とにこやかに話しかける。
『この調子なら、昼食後は予定通り森の中へ入れそうだ。これからあなたたちに新品のメモ帳とボールペンを配る。一人一セットずつ受け取ってくれ』
 トロイを手伝って、昌人くんが色の鮮やかなメモ帳とボールペンを配って回る。私が受け取ったのは、A5サイズの黄緑色のメモ帳だった。リング式で、開きやすい。
 全員にメモ帳が行き渡ったのを確認し、トロイは続けた。
『ご存じの通り、午後にあなたたちをご案内するのは世界的にも類を見ないユニークな森だ。恥ずかしがり屋で臆病で、非常に繊細な性質を持っている。森を訪れるにあたって、私と一つ約束をして欲しい。それは、森の中ではけしてしゃべらない、ということだ。森の木々は、近くで発される音を吸う。若い木々は特に、大きな音を吸いやすい。私たちの喉は承知の通り、雨や雪や野の獣たちに比べると雄弁すぎる。仮に氷樹が私たちの言葉ばかりを繰り返すようになってしまったら、とても残念なことだ。そのため、森の中では、会話にはこのメモ帳を使って欲しい。どうか森の中では言葉を忘れ、とびきり素敵なオーケストラに招待された幸福な観客のように、大人しく周囲の音を味わって欲しい。森はきっとあなたたちに、大きな喜びをもたらすことだろう』
 その後にトロイは、移動の合図に旗を使うこと、よく音の聞こえるポイントごとに十五分ずつ滞在すること、万が一雪が強まったら散策を途中で切り上げる可能性があることなど、細かな注意に入った。
 説明会が終わると、昼食になった。食堂へ移動すると、トロイの奥さんのローラがすでに人数分の食事を並べ終えていた。温かい胚芽パンと、クリームチーズのシチューと、マスタードの添えられたソーセージが二本、お皿に並べられていた。私の向かいの席には昌人くんが座った。目が合うと、彼はかすかにはにかむ。私も笑い、いただきます、と手を合わせた。
「緊張するんだ」
 口に出すと、パンを頬張った昌人くんがこちらを向いた。
「つい、しゃべっちゃったらどうしよう」
「だいじょうぶですよ。わざと大声でしゃべり続けたりしない限り、そんなおおごとにはなりません。たまに、いるんです。聞こえてくる音が心地よくて、つい無意識にハミングしてしまう人とか。トロイも笑って許してます」
「そっか」
「トロイが強い言い方をしたのは、森を可能な限り、人のたてる強すぎる音から守るためです」
「強すぎる音?」
「はい。むかし、旅行者で、無断で森へ入って大音量でロックを流した人がいて事件になったそうです」
「ひどいね。なんでそんなことをしたんだろう」
「さあ。その本人に聞いてみないと分からないでしょうね」
 気分の良い想像ではなかった。考え込んでシチューを食べていると、昌人くんが眉を下げ、すみません、と小さく言った。
「なにが?」
「食事に適した話題じゃありませんでした」
 やっぱり繊細な子だな、と私はほとんど感嘆して、気にするなと首を振った。



 午後になって、雪は上がった。トロイの勧めに従って、ダウンジャケットの下にセーターを着込み、厚着をしてロッジのエントランスへ下りる。十五人ほどの客が集まっていた。昌人くんの姿もある。コートを着たトロイが人数を数え、よし、と頷いた。今回のツアーに行くのはこれで全員らしい。
『みんなメモ帳は持ったな。それじゃあ行こう』
 先頭をトロイが歩き、最後尾を昌人くんが守っていた。私は集団の真ん中辺りの、空いている位置を選んで歩いた。引率に従い、ロッジの裏手に広がる青い森へ入る。氷樹に周囲を囲まれた途端、体感温度が三度ほど下がった。下草があまり生えていないので、雪に足を取られない限りは歩きやすい。しばらく細い小道を進むと、木々の合間に銀色の金網が見えてきた。網の一部が扉になっていて、南京錠で閉ざされている。
 トロイは一度足を止め、全員の到着を待った。
『この金網が境界線だ。ここを越えたら、自分は口を持たずに産まれてきた生き物なんだと思いだしてくれ』
 青い眼を持つロッジの主人は、そう言って錠を開いた。
 金網の扉をくぐる。しばらくは、今まで来た道と変わらなかった。雪を踏む足音や衣擦れの音の他は、目立った音は聞こえない。若干木の密度が強まって、気温が下がったように感じる。アドバイス通り、厚着をしてきて良かった。
 森の深くへ進むうちに、町の音が遠ざかった。
 どこかで鳥が鳴いている。
 るる、と喉の奥で声をたごまらせた、親へ甘える雛鳥のような声だ。るる、がほそくほそく伸びて、耳の底を柔らかく掻いていく。溜まった雪が枝から滑り落ちるような、乾いた音がそれに被さる。ふと気がつけば雪を踏む自分の足音に混ざって、スネアドラムに似た鋭さを持つ低音が一定のリズムを刻んでいた。これは、木が発する音なのだろうか。それとも私の心臓の音か。わからない。止まらないとわからない。深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。いつのまにか、自分の呼吸音が耳につくほど、静寂が濃くなっていた。音はあるのに、その周囲が静寂に塗りつぶされている。あまりに奇妙な違和感だった。それは、こういうことなのかもしれない。森の外では、鳥の鳴き声が聞こえたとしても、同時に風の音や潮騒、周囲の人が発するさざめきが無意識に耳へ染みいっている。その無意識の領域で聞いている音が、この森の中では失われている。木に、吸われてしまったのだろうか。雪を踏む音、鳥の声、呼吸音、という具合に、明確に音が数えられてしまう。オーケストラのホールに似た静謐が、一つ一つの音の背後に横たわっていた。
 立ち止まりたい。そう思っていると、先頭の方で緑色の旗が上がった。トロイの指示だ。はじめの休憩場所に辿り着いたらしい。
 その辺りは木の間隔がすこしゆるんでいて、見通しがよかった。小道に沿って、ベンチがいくつか設けられている。トロイは道のそばの切り株に腰を下ろし、旗を切り株の割れ目へさした。この旗の見える範囲にいるよう、注意を与えられている。
 参加者は思い思いに散らばり、周囲を見回したり手近な木の幹へ耳を当てたりと自由に森を味わい始めた。私もベンチの一つに腰を下ろした。そっと呼吸を細める。はじめに聞こえた鳥の音は、まだ続いている。
 今度は背後から、雨の音が聞こえた。空を見上げる。氷の結晶に似た木の葉越しに見上げた空は白く明るい。ただ、雨音だけが薄くて軽い毛布のようにふわりと聴覚を包む。相変わらず、身体の内側から聞こえているのか、外側から聞こえているのかわからないスネアドラムと、鳥の声と、遠い雨音が耳の奥で溶け合う。私はすぐ近くの氷樹へ触れた。青みを帯びた木の肌は、心地よく体温を吸った。
 ばさ、と唐突な風切り音に顔を上げると、トロイが旗を振っていた。皆、耳がとがっているのだろう。参加者は一斉に振り向いた。トロイは全員の目が自分へ向いたのを待って人数を数え、今度は手をあげた。出発の合図だ。私たちはまた森の小道を歩き出した。
 三度目の休憩場所で、昌人くんが目に入った。昌人くんは両手をコートのポケットに差し込んで、森の外で見たどの瞬間よりもリラックスして立っていた。
 森の初めての散策を、私はメモ帳を使わずに終えた。



 スネアドラムに似た低音が聞こえた? と夕飯の席で問いかけると、昌人くんはトマトとニンニクのパスタを食べながらしばらく考え込んだ。
「それに近いものが聞こえたことはあります。けど、今日は聞こえませんでした」
「そう、私にははっきり聞こえたんだけど、じゃあ、あれは氷樹の音じゃなかったのかな」
 ただの心臓の音だったのだろうか。食後のヨーグルトを食べながら、私は左胸へ手を当てた。かすかな拍動は、音というよりも触覚として手のひらに認識された。これがあの森の中で聞いた音と同じものなのか、よく分からない。昌人くんはコーヒーをすすり、ゆっくりと間を置いた後に口を開いた。
「同じ時間帯に森へ入っても、人によって、まったく違う音を聞くことがあるようです」
「どういうこと?」
「明確な理由は分かりません。トロイはよく、違う耳を持っているのだから違う音を聞く、当たり前のことだ、と言っています。俺も前に、仲良くなった旅行者の人と協力して、一度の散策で聞いた音をお互いに紙に書き出して照合したことがあります。けれど、俺と彼ではそもそも聞いた音の総量が違い、音の内容も半分以上、異なっていました」
「総量って?」
「言葉の通りです。そのとき俺は、散策の間に十種類ぐらいしか音を聞き取れませんでした。けど彼は、五十種類近くの音を聞き、森の放つ音の豊かさに感動していました」
「その人はずいぶん耳が良かったってことかな」
「おそらく、そうだと思います。北国出身で、ワイン商をしている物静かな男でした」
 シャワーの後に、寝台の上に置いた携帯を覗くと、菜々海から着信が入っていた。通話画面を起動させる。時計を見た。海を超えた遠距離通話だ。五分以上しゃべれば請求が大変なことになるだろう。
 回線はすぐにつながった。
「菜々海?」
「もしもしヒナ? 無事そっちについた?」
「ついた、ついた」
 寒いの? すっごい寒いよ、と他愛もない会話を重ねた。菜々海の声は、回線を通すと甘くくぐもる。耳の内側をくすぐられるような声だ。私は流氷が浮かぶ海の色のことを話し、雪に覆われた山の眩さを話し、氷樹の森の不思議さを話した。菜々海はそのいちいちに柔らかな相づちを打って、いいねいいね、素敵なことだね、とまっすぐに私の体験を喜んでくれる。「素敵ね」は菜々海の口癖だ。私はたまに、ふとした瞬間に現れる菜々海のあまりに健やかな性質に泣きたくなる。けれど、今日はそんな感慨に耽れるほどの時間はない。
「昌人くんは、元気そうだよ」
 おそらく聞きたかったのだろうことを切り出すと、菜々海はふと、間を置いた。柔らかい空白。ええと、だったり、んー、だったり、考える間の時間を埋める声を発さないという点で、この姉弟はよく似ている。
「よかった」
 数秒をおいて、菜々海は呟いた。
「昌人、なんで三ヶ月も日本に帰ってこないのか言ってた?」
「まだなにも聞けてないんだ。ぶしつけに聞くのもどうかと思って」
「そうか……」
 菜々海はまた沈黙する。軽く下唇を噛んだ口元が見えるようだった。私は彼女の言葉を待った。息を吸い込む音がして、菜々海はまた口を開いた。
「それなら、あんまり急がないでいいよ。あの子もむずかしいところがあるし、もしかしたら理由を聞いてもはっきりとは答えないかも知れない。様子だけ教えてくれれば私は充分だから、昌人のことはあまり気にせず、ヒナは旅行を楽しんで」
「ありがとう。またなにかあったら連絡する」
 通話はちょうど五分で終わった。私は湯冷めをしないうちに布団へ入った。明かりを消すと、部屋は、森の奥を思い出させるほど静かだった。窓の向こうではまた雪が降り始めている。昼間に耳を澄ませていた名残なのか、大粒の雪の結晶が擦れ合うきらびやかな音を、夢の中で聞いた。

 翌日も、私はトロイの率いる森の散策ツアーに参加した。今回は、昌人くんの姿は見えなかった。
 昨晩あんなに雪が降っていたのに、森の小道はちゃんと雪が端へ寄せられ、整えられていた。後でトロイに聞いてみたら、朝に昌人くんが雪かきをしたのだという。
『マサトは賢い。よく気がつく子だ』
 トロイはにっこりと笑った。昌人くんは、だいぶここの生活になじんでいるようだ。
 二回目の散策は指を折りながら進んだ。私は八つの音を聞いた。昨日よりも多い。ふわふわと耳をくすぐるハミングのようなものが聞こえて、かつてこの森を歩いた子供の声なのだろうかと思った。ツアーを終えて、私はそのままロッジの周りの散歩に出た。海沿いの道をしばらく歩き、インクを溶かしたのかと思うほど青の鮮やかな海面を眺める。潮騒と風の音、海鳥の声。通りすぎる車のエンジン音。静かな森に浸っていた反動か、やけに日常の音が賑やかに聞こえる。
 赤い火の焚かれた暖炉が心地よくて、夕食後も談話室に残っていたら、ウイスキーを片手にトロイが現れた。私の前にグラスを置き、琥珀色の酒を注いでくれる。
『ヒナコは、マサトを連れ戻しに来たのかい?』
『そうではありません。ただ、マサトの姉は彼を心配しています。マサトの家族は、マサトがこんなに長く帰ってこないとは思っていなかったようです』
『そうか』
 トロイはじっと暖炉の火を見つめた。彼の青い眼に、橙色の炎の影が美しく映る。
『マサトはここに来て、じっと耳を傾けることを学んだ。森に対してじゃない。彼自身の内面に対してだ。はじめて私のロッジを訪れた時、彼は言葉が喉へ詰まって窒息しそうな様子だったよ。けれど、だいぶよくなった。あとすこし、マサトを信頼して彼に時間を与えられるなら、彼は自分の行く先について、きちんと自分自身の手で決断が出来るのではないかと思う』
『マサトの姉にはそう伝えます』
『そうしてやってくれ』
 私は氷の浮かべられたウイスキーをすすった。喉の奥に小さな火がともされる。
『あなたは、どのくらいの種類の音を森の中で聞いていますか』
 問いかけに、トロイは安楽椅子に頬杖をついたまま、ゆっくりとまばたきを繰り返した。
『私は森へ入ると、豊かな音の波がひと息に押し寄せてくるように感じる。一つ一つの音をわけて数えることはしない』
『私にとって、森は時に静寂に塗りつぶされています。無音のなかにぽつりぽつりと音が浮いている。慣れれば、あなたのように聞こえるようになるのでしょうか』
『私たちの耳は、大きな声ではっきりと語りかけられることに慣れすぎている。いま私とあなたが交わしている会話もそうだ。方向をもたないもの、かたちのないもの、朝咲いて夜には枯れる花のような他者の介在を求めないものを知覚することに慣れていない。ひそやかで慎み深い音を察知したければ、静寂の幕の向こう側にある音の存在を信じて、どこまでも耳を澄ませることだ。夜空の彼方の等級の低い星へ目を凝らすことで、見える星の数は増える。それとまったく同じことだよ』
『やってみます』
『じっと耳を澄ませれば、二百年前に絶滅したオオウミガラスの鳴き声だって聞こえるかも知れない』
『えっ』
 流石に冗談だったらしい。トロイは笑い、茶目っ気たっぷりに肩をすくめた。
『ここはフォノトグラフの森とも呼ばれている。どうしようもなく気まぐれで大雑把な、大地の録音装置だ。楽しんでくれ』



 三日目、はじめの休憩場所で、私は昌人くんの袖を引いた。文を書き付けたメモ帳の一ページ目を見せる。
[たくさん音を聞く、コツを教えてくれる?]
 昌人くんはわずかに口角を上げ、自分のメモ帳にボールペンを走らせた。口でしゃべりかけたときよりも、ずっとなめらかな反応だった。
[意識を遠くへ向けるんです。遠く、遠く。自分の身体が水のように溶けて、広がっていくイメージで。]
 昌人くんは留め跳ねの正確な、美しい字を書いた。[ありがとう。]と私はお礼を綴り、彼の言う通りに目を閉じた。オオウミガラスらしき声は聞こえない。けれど代わりに、右手の方からは柔らかい雨音が、正面からはごうごうと鳴る嵐の空に似た重低音が聞こえた。そこに、ぷちぷちとまるで木の実が弾けるような軽い音が混ざる。私の耳へ入るのは天候にまつわる音が多い。本物の空が晴れているにもかかわらず、雨音や嵐や雷が聞こえると、身体がそれを奇妙に思って意識を集中させるのではないかと思う。なぜか、多くの人が耳にするのだという鈴の音や子供の声は、不思議とあまり私の耳には入らない。個人差があるのだろう。
 雨の音を楽しみながら、私は菜々海をここに連れてきたいと思った。連れてきて、そして、彼女の耳へどんな音がいちばん響くのか、知りたい。彼女の中の、かたちにも言葉にもならない部分を知りたい。菜々海は職場の同僚の、顔の美しさだけが取り柄の男と付き合っている。菜々海の誕生日の夜にも、この男は会議と偽って後輩の女子社員とホテルのバーで飲んでいたらしく、私はたまにこの男をけっこう本気でぶん殴りたくなる。私はレズビアンではない。女性の身体には性衝動を感じない。けれど、菜々海は私にとって特別なのだ。人がサン・ピエトロ大聖堂のピエタを愛するように、私は菜々海の健やかさを愛している。このややこしい感情を、私が彼女に打ち明ける日は一生こないだろう。それでいいと思っている。
 次の休憩場所で、ベンチに座っていると、昌人くんが隣へやってきた。
[姉に、心配をかけてすまないと伝えてください。]
 私はペンを取った。
[わかった。]
 すこし考えて、言葉を足した。
[まだしばらくは、帰らないのね?]
 昌人くんは神妙な顔で私の文を読み、やがてまたペンを動かした。ゆっくりと、一文字一文字を吟味するような書き方だった。
[俺はここに来るまで、ずいぶん長く、やっかいな問題を抱えていました。豪雨を伴う嵐のような、説明のしにくい混乱です。そしてそれを、両親にも姉にも隠してきました。]
 私はペンを動かさず、ひとつ頷いて昌人くんが次の言葉を綴るのを待った。彼の抱える問題について、彼が望まない限りは暴こうとは思わなかった。彼のいたいたしく繊細な気の配り方や、トロイが前に口にしていた、『言葉が喉へ詰まって窒息しそうな様子』という表現から、だいたいの想像はつく。昌人くんは一度私の目を見て、またペンを取った。
[混乱は、年を重ねるほど大きくなりました。自分の状態をうまく人に説明することが出来ず、姉にもだいぶ迷惑をかけました。けど、この森を訪れて、俺はすこしずつその嵐が収まっていくのを感じました。特に、周囲へそっと耳を澄ませるという行為が、いちばん俺に影響を及ぼしているように思います。ここに来るまで、俺は、自分の声が他人にどう響くかばかりを気にしていて、血を分けた姉の声ですら、ほんとうに耳を澄ませて聞いたことはなかったんです。]
 昌人くんは文を切り、一度口元押さえてうつむいた。耳が赤い。恥ずかしくなってきたらしい。私は、軽く、なるべく柔らかく触れるよう気を配りながら彼の背中をとんとん、とたたいた。昌人くんははにかみ、またペンをとった。
[年明けには、日本に帰ります。その頃までに俺は、前よりは分かりやすく俺自身のことを家族に説明できるようになっていると思うし、前よりずっと上手に、あの人たちの話を聞くことができるようになっていると、思います]
 私は昌人くんの文を二回、読み返した。そして、私のメモ帳の新しいページを開いて、ボールペンを握った。
[帰ってきた君が語る、森で聞いたたくさんの音の話を、君の家族はとても喜んで聞くと思う。]
 目を和ませた昌人くんは、はい、と声を出さずに柔らかくうなずいた。

 最終日、昌人くんはスノーランドの伝統柄のマフラーをお土産にくれた。一つは姉に届けて欲しいのだろう。包みを開くと二本、色違いで入っていた。
「帰り道、お気をつけて」
 行きと同じミニバンで空港へ届けてくれた昌人くんは、そう言ってゆっくりと手を振った。
 飛行機では相変わらず、不自然なくらい暖房が効いていた。離陸を待っているほんのわずかな時間に、首から汗がにじみだす。私はセーターを脱いだ。轟音と共に機首が上を向き、重力を振り切って空へと飛び立つ。丸い窓から、白い山に抱かれた青い森を眺めた。


[血を分けた姉の声ですら、ほんとうに耳を澄ませて聞いたことはなかったんです。]


 昌人くんの美しい文字が網膜に焼きついていた。「ほんとうに」耳を澄ませて他人の声を聞くことが出来るのは、あの青い森の木々だけなのではないだろうか。昌人くんは、一本の木になろうとしている。私は目を閉じて「ほんとうに」耳を澄ませてみた。遠く遠くへと意識を拡大し、広がる水のイメージをもつ。森の中で聞いた、あの胸の内側を濡らすような柔らかい雨の音を思い出そうとした。けど、鼓膜を揺らすのは不愉快な暖房の送風音と、隣のシートに座る中年男性のイアホンの音もれだけだった。
 どれだけあの森へしがみついても、私は氷樹にはなれないのだろう。窒息しかけるほど言葉について思い悩んだことも、「ほんとうに」他人の声を聞ける耳を欲しがったこともない。昌人くんは、たしかに彼の居るべき場所にいたのだ。歩いて歩いてたどりつき、明確なイメージを持って、一人の心やさしい大人になろうとしていた。
 森にたたずんでいた昌人くんの薄い背中を思い出した。


 いつかまた彼に出会ったら、私はあの雨の音を聞けるのかもしれない。






*2032年


 こんばんは。ああ、また来てくださったんですね。
 覚えていますよ。お久しぶりです、一年ぶりでしょうか。お元気でしたか? ご家族の方にもお変わりはないですか。ああ、娘さんが高校生に。それはすてきだ。
 さあさあ中へ。今夜は寒い。ブリザードが吹くようです。この辺りは、年々寒くなっていきます。ホットワインとウイスキー、どちらがよろしいですか? チャイもありますよ。今晩のお客さんはあなただけなんです。はい、天候の悪化で、飛行機の午後の便が欠航になってしまったらしく、中国からのツアーのお客さんがいらっしゃるはずだったのですが、すっかり拍子抜けしてしまいました。
 暖炉の前へどうぞ。コート、お預かりします。乾かしておきましょう。
 ホットワインですね、すこしお待ちください。



 西側の森の具合はいかがですか?
 ああ、そうですか。やっぱり、政府の管理が無くなるとむずかしいものですね。
 気持ちは分かりますよ。いや、ゴミの話ではなくて。ゴミはちゃんと拾って帰らなきゃならない。そうじゃなくて、声の方ですね。自分の声がもしかしたら、自分が死んだ後にもずっとずっと森に残るかも知れないって言うのは、魅力的な誘惑です。実際、このへんの森も、歩いていると、ずいぶん人の声を聞くことが多くなりました。音のほとんどがそうだと言ってもいい。歌声だったり、叫び声だったり。聞くこっち側も人間ですから、どうしても人の声には過敏に耳が向いてしまって、むかしみたいな、こまかいこまかい小さな音は、どうしても聞こえ辛くなりました。
――老化じゃないですよ?
 ひどいな。笑わないでください。そりゃ、俺もだいぶおっさんになったけど、そんな耳が極端に遠くなるほどじゃない。
 そういうわけで、むかしトロイが言っていた通りになりました。「科学者にとっての研究価値がなくなった瞬間、この森は大地の録音装置ではなく、人の声の集積装置になるだろう。かつて人がゴクラクインコを貪りつくしたように、この森の静寂も遠からず貪られる。」そうですね、トロイは、ほんとうはあまり人間が好きじゃなかったのかも知れない。シニカルな物言いをしては、よくローラにたしなめられていました。
 ずいぶん早く、俺にこのロッジを譲ってくれたのも、彼の中に厭世の気質があったからのように思います。まあ、孫が産まれて、娘夫婦と一緒に住みたくなったっていうのも、もちろんあるかと思いますが。
 はい、おかげさまで、もう十年になります。贅沢は出来ないけど、人の声がうろうろと響く不思議な森が相変わらず珍しがられているおかげで、ちゃんと暮らしていけています。


 すこし話が戻りますが、俺はね、この森の今の状況が、この世界における常態なんじゃないかと思うことがあります。
 二十代の頃、トロイに引率されてはじめてこの森に入った時、俺はほんとうにびっくりしたんです。耳を澄ませると、まるで夜空の星がまたたくように、きらきらと不思議な音が聞こえる。海の音や風の音、獣と虫と鳥の声、かみなり。水のしたたり。耳が慣れれば慣れるほど、その一つ一つが混ざり合って、海のように広がっていた。人のいない世界で、神様っていうのはこんな音を聞いているのか、と思いました。人の声は大きいんだな、俺たちはもしかしたらずいぶん耳が悪くなってるのかも知れないなって。
 でもね、同時にうっすら思ったんです。ああ、なんだかここはきれいすぎて、すぐに壊れちまいそうだなって。こんな場所がずっと残るわけがないなって。そして、それは実際そうでした。初めてこの森に来た時、俺は半年ちかくここに滞在したんですが、ロッジを訪れる観光客の数はせいぜい月に五十人ほどでした。それが、五年後には百人になって、十年後には二百人になった。「都会の喧噪をはなれることができるヒーリングスポット」として、じわじわと有名になっていったんです。特にこのロッジは、ローラの飯もうまかったし、人気の宿でした。
 五度目にこのロッジを訪れた時、トロイは二人、手伝いを雇っていました。彼は憔悴していました。森の中では、しゃべらない。シンプルきわまりないこのルールが、守られなくなっていたからです。金網を越えて、政府の保護林の方へ無断で進入するケースも相次いでいました。でも、そのくらい、ここを訪れる人にとって、ひいては都会に生きる人にとって、静寂は甘露だったんです。なぜって、普段はうまく聞こえない自分の声が、とてもよく響くから。そして、その声が森に抱かれてこの世に長く長く残るなんて、ずいぶんロマンチックでしょう?
 神様がこの世に光臨したら、きっと助けを求める人々に、四方八方どころか百方ぐらいからひっぱられて、ぼろぼろに千切れちまうんじゃないかな。そんな風に静寂のヒーリングスポットは失われ、トロイはロッジを俺に譲って隠居しました。
 人の声が他の自然の音をかき消すようになり、森を訪れる客足は一時期、減りました。けれど今度は、「かつて通った人の声が聞こえる不思議の森」として政府の支援を受けた旅行会社がツアーを組んだ。そしたらまたそれなりに人が集まった。皮肉なものです。まあ、おかげで俺は食っていけるんですけどね。
 話がそれてしまった。すみません。
 ええと、なんだったっけ、そうだ。俺はトロイとは違うように思うんです。
 もろくて美しいものは、それだけで内側に破滅を含んでいる。それが失われることは、悲劇というよりも必然なんです。いくら口を酸っぱくして人の愚かさを論じても、そういう話ではないんです。自然淘汰の、同じ土俵に俺たちだって乗っている。もしも異常気象や疫病であっさりと人類が滅んだとしたら、百年もしないうちに森は人の声なんか忘れて、きれいさっぱり元通りですよ。どちらかといえば、そういうシンプルな話なんです。
 ただ、失われる前に、そのもろくて途方もなく美しいものに出会えたということは、ものすごく大きな祝福なんだと思います。愛して、賛美して、失われたあとには覚えていって、それを血肉として生きることができる。トロイはゴクラクインコが大好きで、あの美しい鳥のポストカードをいつも手帳にはさんでいました。そういう風に、儚いものはかたちを失って記憶の中へ残っていくんだと思います。
 だから、フォノトグラフの森が失われたことについて、俺は、まあこんなもんだろうなと思っています。まだ色んな音が聞けた頃の森を知っているんだから、俺もあなたも幸運なんです。憤っていいのは、一度もかつての森に触れる機会に恵まれなかった赤ん坊たちぐらいじゃないでしょうか。


 ヒナコさんですか? すみません、昨日の夜から熱が出てしまって、寝込んでいるんです。あなたに逢いたがっていました。明日の朝には顔を出せると思います。  そうですね、ヒナコさんの作る「トリソバ」は確かにおいしい。ローラのシチューの後を継いで、このロッジの人気メニューです。あの薬味はジンジャーですよ。俺たちの国じゃ「ショウガ」って言いますけど。たまに空輸で取り寄せてるんです。あなたの滞在中にも、よろこんで作ってくれると思います。とりあえず今夜は、俺のフレンチトーストと缶詰のクラムチャウダーでがまんしてください。すいませんね。
 子供? 子供ですか。
 あの子は俺とヒナコさんの子供じゃありません。それどころか、俺とヒナコさんは夫婦ですらないんです。ああ、お伝えしてませんでしたか。そうですね、共に故郷を飛び出してきた仲っていうと確かに甘美な感じですが。そういうのでもないんです。
 ヒナコさんには、かつて、ずいぶん愛していた人がいました。ヒナコさんは一度も口に出しませんでしたが、俺はいつしか気づいていました。だって、俺は二十代の頃からヒナコさんに惚れて、目で追っていたから、そりゃイヤでも気づくってもんです。
 ヒナコさんの愛していた人はね、俺の身内でした。俺が言うのも変なんですけど、その人はびっくりするほど美しい心を持っていました。やさしくって、やわらかくって、傷ついてる他人の心に敏感なんです。さっきの、森の話とおんなじです。俺は、なんとなく、この人はあまり幸せになれないんじゃないかなって、ちびの頃から思っていました。微笑んでばかりいた。笑って笑って、俺やヒナコさんを励ましてばかりいた。俺はその人が悲しく落ち込んだり、泣いていたり、なにかに文句を言っているところを一度も見たことがなかったんです。それはずいぶん素晴らしいことのようにも思えるけど、同じくらい、いたいたしいことでもあったんです。
 その人は十代の頃から胃炎持ちでしたが、三十代に入って胃がんを患いました。なまじ腹痛が持病になっていた分、いつものことだろうと思って発見が遅れたのがよくなかった。発見から一年もしないうちに、その人は雪が日射しに溶けるようにすうっと亡くなってしまいました。その人が生涯で俺とヒナコさんにしたお願いはたった一つ、子供を見守って欲しい、でした。離婚した、シングルマザーだったんですね。
 ……ああ、そうか、マザーっていったら分かっちゃうか。そうです、女性です。うーん。……うん、実は、俺の姉貴なんです。
 どうかヒナコさんを、あんまり乱暴に解釈しないでくださいね。……こんな言い方もおかしいかな。ヒナコさんの性自認がどうだったとか、俺はまったく知りません。ただ、姉貴のことを大切にしているヒナコさんは、ほんとうに素敵でした。やさしかったし、ヒナコさんは姉貴のもろさを知ってて、姉貴を守ろうとしていたように思います。それだけで、俺はあの人がとても好きです。
 話を続けますね。
 三歳だった姉貴の子供は、はじめ、元父親に引き取られたり、その家庭とそりが合わずに親族へ渡されたりと、転々としていました。それで、なんだか見ていて悲しくなっちまって、最後に俺が引き取ったんです。トロイからロッジを引退する話を持ちかけられてたし、ちょうど、その時やっていた仕事が不調だったこともあって、じゃあもう、子供……そう、アオイです。アオイを連れて、いっそ移住しちまおうって。アオイにとって、悲しい思い出ばっかの国にいるよりも、この雪の降る静かな国で、ちょっといびつだけど、普通の父ちゃんと娘になれればいいんじゃないかって思ったんです。
 そしたらね、ヒナコさんが自分も一緒に行くって言ってくれた。
 ヒナコさんは、姉貴を失ってからずっと自分を責めていました。なんでもっと耳を澄ませて姉貴の声を聞いてやれなかったんだろうって。泣いて、泣いて、端から見ていたら、そのままヒナコさんまで死んでしまうんじゃないかって思うくらいでした。でも、アオイを見て、俺を見て、泣くのを止めてくれたんです。ふかいふかい穴を心の中に掘って、そこに悲しみと懺悔を埋めてくれた。
 にっこり。ほんとにきれいな顔で笑って、アオイと俺と三人で、家族になろうって言ってくれました。
 そんなかたちで俺は、世界でいちばん好きな人と暮らし始めたんです。


 雪、だいぶ強くなってきましたね。
 明日はアオイが寮から帰ってくることになってるんですけど、この雪じゃむずかしいかな。
 今回は何日ぐらい滞在されるんですか? 一週間。そりゃあいい。それなら、綺麗に晴れる日もあるでしょう。最近じゃ、夜にね、俺は散策路の雪かきをするんですけど。一緒に行きませんか。
 そりゃあ寒いですけど、けっこう気持ち良いんですよ。青暗いなか、雪がきらきら光ってて。目が働かない分、耳が良く聞こえる。たまに、なつかしい音や、人の声よりもなお深い音が聞こえたりする。この前連れて行ったら、ヒナコさんも何年かぶりに雨の音が聞こえるって喜んでいました。
 そういえば、アオイは不思議なんですよ。
 むかしはこの森で、雨や風や鳥や、いろんな音が聞こえたんだよって言ったら、妙な顔をして。お父さん、そんなの今でもぜんぶ聞こえるじゃないって。俺は人の声しか聞こえなくなったのに、あの子はぜんぶ聞こえてるらしいんです。嵐も、かみなりも、獣の足音も、遠くで雪が降る音も、森の外では聞いたことのない不思議な鳥の声も。
 森も人も、俺一人がぐだぐだ思い悩むよりずっと大きなものなんだなって。水面に揺れる月みたいな、さりげない奇跡に救われることがあります。
 すみません、すっかり長話になってしまいました。
 もうおやすみになられますか。はい、部屋にはいつも通り、ビスケットと温かい紅茶を届けてあります。
 今日はたくさん歩いてお疲れでしょう、ゆっくり休んでください。
 おやすみなさい、また明日。






*2043年


 まーま、さみしいの。
 私は胸の中でぼんやりと口ずさみながら凍えた森の道を歩いていた。まーま、まーま、まーま。私には二人のママがいる。いわゆる生みの母と育ての母ってやつだ。まーまと呼びかける時、私はこのどちらのママに呼びかけているのか、自分でも分からない。まーま。まーま。きっとまーまは、二人のママが混ざっている。やさしくやわらかい(らしい。覚えていないけど、ヒナコママ曰く)ナナミママと、美人でまじめな(パパは大学生の頃、この森で出会ったママのきりっとした横顔に一目惚れしたんだという。なんてわかりやすいのパパ)ヒナコママ。二人のママの、ママらしきイメージの融合体もむかって、私はまーまと呼びかける。
 こころのなかで、まーま、って呼びかける癖があるよって言ったら、同い年の恋人は、アオイはおさないなあって笑った。たいてい私は周りの人に、年齢よりも幼く扱われる。仕方がないのだ。私はこの島では珍しい東洋人の娘で、学校でもどこでも、彫りが深くて背が高い、同い年でもずっと大人びて見える北欧の子供たちに囲まれて育った。恋人は調子に乗ると、私のことを仔猫さんと呼ぶ。185センチを越える長身の彼にとって、155センチの私を抱き上げるのは、確かに人間が仔猫をつまんでいるようなものかもしれない。
 十代の頃は、日本に帰りたかった。自分の黄色い肌も、黒い目も、髪も、背の小ささも、好きにはなれなかった。太陽から縁遠いこの島に生まれた恋人の肌は白く澄んでいて、寒さが強まると桃色に染まった。彼の、緑と金茶のまざった瞳のうつくしさに見とれた。かなしみを打ち明けると、恋人はすこし笑って、君は、君の漆黒の髪に一輪の花が飾られたときの美しさを知らないんだ、と言った。そりゃそうか、いつも僕が勝手に後ろから差してるんだもんなあ。今度、鏡の前で一緒に見てみよう。きっと気に入るよ。恋人は歩きながら、私の髪の結び目に勝手に野の花を差し込む遊びをよくしていた。差し込まれたことを忘れたまま家に帰り、昼寝をしようとベッドに寝転んで、枕を花の汁で汚してしまったこともある。面倒な遊びだと思っていたが、彼がそんな風に私の後ろ姿を見ているのだと知って、思わず頬が熱くなった。恋人は笑って私を抱きしめる。なんどもなんども抱きしめる。
 まーま、私は愛する人が出来たよ。そのときにも、まーまへ呼びかけた。
 雪を踏みしめて森を進む。散策路を示す細いロープをまたいで、雪かきのされていない更に奥へ。白い雪原は、私の足首を飲み込んだ。ヒナコママの毛皮のブーツを借りてきたので、寒くはない。一歩踏み出すたび、ざくっざくっと雪の砕ける音がする。フォノトグラフの森は耳を澄ませている。この音が、またどこかで繰り返されるのだ。私は気にせず、先に進んだ。もっと奥へ、もっと奥へ。
 いつも耳を澄ませていなさい、とヒナコママは言う。たいせつなものはかんたんに失われてしまうから、いつも注意深く耳を澄ませていなさい。耳を澄ませなければならないとき、私は森の奥へ入る。散策路から十分ほど進めば、倒木がベンチ代わりになった私のお気に入りの場所がある。青く冷たい倒木の雪を払って、私はそこへ腰を下ろした。  息を整える。目を閉じる。そうすると、聴覚が広がる。地から植物が芽吹くように、四方から音がさざめきはじめる。はじめは、誰かを呼ぶ人の声が。すこし待つと、それに雨や風の音が混ざっていく。車のエンジン音、性別のわからないハミング、ラジオの甘いノイズ。絡み合う。息を止めて、海へもぐるように意識を一段階深める。そうすると、今度は更に小さな音が聞こえる。植物が生白い根を土へ食い込ませていく力強く獰猛な気配。降り積んだ雪の軋む音。りん、と高く澄んだ破砕音は、おそらく氷樹の古くなった葉の結晶が砕ける音だろう。鈴の音色にも似ている。
 子供の頃は、もう一段階深くまでもぐることが出来た。すでにこの世には存在しないのだという鳥の声を、聞くことが出来た。聞こえなくなったの、と十代の終わりにパパへ打ち明けると、パパは私の頬を両手で包んで、大切にしなさい、と言った。お前が忘れない限り、鳥の声はお前の内側で生きている。それは世界がお前へ贈ってくれた宝物だ。いっしょに生きていきなさい。私はそれ以来、聞こえない鳥の声を思い出すようになった。かすかにくぐもった、耳の底をくすぐるようなさえずり。
 この島を出るんだ、と恋人は言った。彼はずっと、島を出るために英語とフランス語を熱心に勉強していた。イギリスの観光会社に就職が決まったのだという。恋人は大きな身体をちいさくすぼめて私を抱いた。一緒に来てほしい、と子供のような声で言った。
 いつも耳を澄ませていなさい。ママの言う通り、私は懸命に恋人の声へ耳を澄ませた。自信家で楽天家の彼に似合わず、彼の声は不安に濡れていた。アオイは俺によく、「素敵ね」って言ってくれるだろう。俺は君のその声を聞くと、ほんとうに胸が温まる。俺をとりまく世界が光を帯びて、ほんとうに素敵なもののように感じられる。だから、一緒に来て欲しい。こころのいちばん奥の、無防備な部分からしぼりだされた声だと分かった。
 それでも彼を選んだら、私は私を包む温かな世界を手放さなければならない。ヒナコママとパパから離れて、遠くへ? 勤め先のやさしいひとばかりの雑貨屋を離れて、違う国へ?
 まーま、わたし、さみしいの。
 音の海を漂いながら、私は少し泣いた。雨の音が聞こえる。ヒナコママがいちばん好きだという(そして、彼女はもうどれだけ耳を澄ませても聞くことが出来ないのだという)、柔らかな毛布のような過去の雨音だ。森をたゆたう過去の音色は、どれもやさしい。どれも甘い。私もいつかこの音を失うんだろう。それは悲しいことではないとパパは言う。パパの言葉に、きっとママも救われたのだ。かつて私のこころが恋人にすくい取られたように。
 まーま、わたし、ひとりでちゃんとえらばなきゃならない。かつてのあなたたちがそうであったように、失われるものを血肉として、耳を澄ませて進んでいかなければならない。
 私は大人になったのだ。



 しばらく泣いて、私は倒木から立ち上がった。私の泣き声も森は覚えていくのだろうか。パパはどんな顔をするだろう。ヒナコママはきっと、いつものように「素敵ね」って言ってくれる。ヒナコママのほんとうに美しい口癖。それは私にも受け継がれている。
 雪が降り始めた。私が包むには彼の身体は大きすぎるけど、それでも愛する人を深く深く抱きしめるため、私は雪面に残った足跡をたどって、ゆっくりと凍った森を出た。











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