葬送




 桃の匂いがするね。
 客の一言に、夏が来たことを知った。爪の間が甘くなるほど食べて初夏、人に指摘されて夏本番。この季節になると、身体が果物ばかり食べたがる。肉や穀物といった、消化に力のいるものを食べたくなくなる。
「桃、最近たくさん食べてるから、そのせいかもしれない」
 眠気の混じった口調でそう告げると、ふぅん、と気のない相づちをうち、男は私の腰を抱き直した。身体から柑橘系の甘苦い酸味が漂う、濡れ髪が青草のようにすこやかな男だ。
 身動ぐたびにバスタブの縁から湯がこぼれる。高い位置にある換気窓から差し込む朝の光が、浴室を白く照らしている。
「囓ったら、甘い味とかしそうですね」
「はは、するかも」
 足をからめ手をからめ、鼻の頭に汗を浮かせて懸命に身体を打ちつけてくる男の頬を撫でながら、私はしまった、と奥歯を噛んだ。男の名前が思いだせない。朝方はいつもそうだ。血が足らない。浴室の壁に据えつけてある平たい時計に目をやり、あと十五分をごまかすよう、濡れて束になった男の髪を口に含んでゆるく吸った。先ほど流した石鹸の薄い苦みと、この男自身の、オリーブの実に似た塩味が口内に広がる。
 こちらの児戯にまったく反応せず、男は腰を揺らし続けている。突き上げられるたび、体の中で他人の心臓の音が広がる。私の身体は、見知らぬ他人との情事をよろこぶほうだ。思想も食べ物の嗜好も知らない相手と急所をこすりつけ合う行為は、海を背にして崖っぷちに立っているような無防備な気分になって心地よい。商売をはじめて四年が経つ今でも、いい、と思い続けていられるのだから、性に合っているのだろう。
 客のなかには、たまに、獣がいる。
「あ」
 射精の瞬間に覆い被さってきたと思ったら、右の首筋を強く噛まれた。一瞬、男の目をみた。夜中の海の漆黒に似た、奥の見通せない平たんな目をしていた。笑っても憤ってもいない穏やかな表情のまま、ただためらいのない俊敏さで噛みついてくる。
「う」
 走る痛みに目の端がひきつった。愛撫だと感じられる限度を遙かに超えている。噛まれた皮膚が脈を打ち、右の指先がしびれた。
 ぱちん、と目の奥で火花が弾け、とっさに裏拳で男のこめかみを殴りつけた。射精の直後で気が抜けていたのか、それとも殴られたせいか、男はバスタブのへりに突っ伏してしまう。あれ? と夢から醒めたようなつぶやきを聞き、もう一度、濡れ髪の後頭部をはたいた。
「……ばかか!」
 動揺を振り払うよう大きな声を出した。真っ白になった頭のまま、三枚で済む紙幣を五枚もぎとり、困惑した様子の男に服を押しつけて蹴り出した。
 荒い息をつき鏡をのぞき込むと、首筋には噛みあとが残り、うっ血した皮膚が青黒く腫れていた。肩を動かすたび、根の深い痛みがビリ、と手の先まで伝わる。
 心臓が、はやい。
 目の奥には、噛みつく間際の男の目の色が残っていた。

 この家には、昔は私と伯父と二人で、更に昔には私と伯父と私の母の三人で住んでいた。平屋で、部屋数が少ない代わりに一つ一つの部屋が広くて、目立った家具の少ない、からりとした淋しさを漂わせる家だ。
 一人で住むには、だいぶ広い。柱がやけに鮮やかな紺色で塗られていたり、浴室の壁が冴えたレモン色のタイルで覆われていたりするのは、絵や彫刻で生計を立てていた伯父の美意識に基づく装飾なのだろう。おかげでこの家は、伯父がいなくなってからも彼の気配が強く香った。
 伯父は居住スペースと連結したアトリエを持っていて、更にアトリエの奥、硝子戸の向こうにはちいさな裏庭を育てていた。家に私しか居なくなって以来、ロクに手を入れていないせいで、庭には色の濃い草木が乱雑に伸び茂っている。
 痛む肩をぐるりと回し、Tシャツとパンツを身につけて浴室を出る。硝子戸を開け、目立って大きい柘榴の木の下へ歩いた。朝露に濡れた青草にくるぶしをくすぐられながらしゃがみこみ、木の根本、黒く湿った土にてのひらをあてる。
 土は、身体にたまった熱をひんやりと吸い取ってくれる。肩の痛みもすこしわすれた。この下には、私の母親が埋まっている。静かに眠り、土に溶け、この庭を繁らせている。私は朝に夕に、庭に手をあて母に挨拶をする。おはようおやすみこんにちは。

 眠りから覚めると夕方だった。昨日の晩からなにも食べていなかったので、すこしお腹が空いている。Tシャツを脱ぎ、そのへんに散らかしてあったブラジャーを爪先ですくいあげ、色のあせたジーンズを腰まで引き上げる。
 出かけに、仕事の仲介所に連絡を入れた。この島で女を買う時には大抵この仲介所に出向き、店主に簡単な審査を受けた後、商売をしている女の都合を確認して指定された家を訪れることになっている。
「二日ほど、おやすみでお願いします」
 三十七歳性別不詳、筋骨隆々の店主は、ジウちゃん今月ちょっとやすみすぎ、と艶のある声で小言を言った。
 夕闇に包まれた広場は賑わっていた。大陸の方で夏期休暇のシーズンに入ったらしく、観光客の姿が多い。場を盛り上げるための篝火があちらこちらに焚かれ、中央の空間ではギターと女の歌声に合わせて人々が身体を揺すっている。外縁をぐるりと囲んだ屋台群の中で、ひときわ人の集まった一軒を目指して歩きだす。屋台の周囲は、海産物を炒めるこうばしい香りに満ちていた。
「燕(エン)」
 裏から回って呼びかけると、鉄板の上の具をかき混ぜていた男は目を上げた。イカや海老が鉄板の上を踊り、ソースに染まった焼飯にからむ。器に盛った海鮮チャーハンを客に渡し、燕は口を開いた。
「ジウか。出歩いてるなんてめずらしいな」
「へへ。お腹空いてさ」
「おごんねぇぞ。金払うか手伝え」
「はいよ」
 せまい屋台にもぐりこみ、示されるまま青葱をきざんだ。夜が深くなるほどに篝火は色味を深め、行きかう人々が増えていく。鉄板の熱気にふきだした額の汗をTシャツの腹でぬぐったら、角度のせいで見えたのだろう、私よりも頭一つ分背の高い燕は、怪訝な顔をして菜箸の背で髪筋をすくってきた。
「何コレ。首、どうした」
「朝方、お客に噛まれちゃった。結構痛いの」
 燕は一瞬よぎった嫌悪に似た表情を、続く軽口でうち消した。
「ドラキュラでも相手にしたのか」
「吸われてないって」
「気をつけろよ。世の中変なやつなんかいっぱいいるぞ」
「またそうやって、親みたいなこと言う。お説教ならいらないよ」
 といっても、男親など会ったこともないけれど。妙なことを言った、と後に気づいて目を上げると、燕はまったく気にした様子もなく飯を炒めていた。二本のヘラを慣れた手つきで扱い、すぐに一皿を仕上げていく。
 燕は島で唯一の機械修理工の息子だ。十代の終わりに徴兵に行って、帰ってきてから家業を継いだ彼は、車でもラジオでも時計でも、油の染みこんだ器用な指でなんでも直す。要領のいい性格をしていて、夏の間には、観光客目当てにこうして屋台までひらいている。九つも年上の燕は、会ったその時から兄貴ぶっていて、島にやってきたばかりの幼い私の面倒をよく見てくれた。
 客は切れずに続いた。やっぱり夏だなあと思う。東の草原に三百年前だかの石の建物がほんの十メートル四方残っている、名所といえばそのくらいの、なんの変哲もない島だ。それでも夏期休暇にはお客が押し寄せる。海とか、海産物とか、テレビの電波の届かない環境とか、高い建物がなにもないだだっぴろい平原を求めて。
 みんなどこかへ行きたいのだろうか。この島になにかがあると信じているのだろうか。とりとめのないことを考えていると、燕が目線を合わさずにつぶやいた。
「あのさぁ、お前、そろそろあの商売やめろよ。さっきの、噛まれたのもそうだけど、やっぱり危ねぇよ。身体もキツいだろうし」
 油断すると、すぐにこういう、距離の近すぎることを言う。だから私は、燕に家族に等しいくらい親しむけれど、一生恋をすることはないだろうと思う。
「家の、伯父さんの所有期限が切れるまで、あと三年しかないから、悠長にお金貯めてられないの。目標金額まであと少しだし」
「金、貸すから」
「人にお金借りるなって、母さんが言ってた」
「……そもそもあの家を出て、」
 燕は言葉を切って顔をしかめた。私はそれを横目に眺める。なにも言う必要はないだろう。逆に言えば、その事柄を失念するほど、燕が普段の私を危なっかしく感じ、案じてくれていたということになる。
 母を裏庭に埋めたときには、燕も一緒だった。
 もう、十年も前のことだ。
「悪い。なんかいま、馬鹿だった」
「んーん」
「でも、なんかあったら言えよ、本当に。変なのにつきまとわれたとか、男手が要るときは、いつでも」
「ありがとう」
「命日、今年も行くから」
「うん、待ってる」
 高い位置にあった月が水平線に触れる頃、屋台の具材がつきた。燕は最後の一皿を私に差しだし、ついでに西瓜の二切れと、他の屋台で買った珈琲をつけてくれた。湯気の立つ紙コップを手に、閑散とした広場に座り込んで空が白むにつれ消えていく星を眺める。朝が来る。
 甘みの薄い西瓜を囓っていて、ふいに心臓が早まった。首を傾けると、傷がまだ痛む。
 昼間の客の目が気になっていた。ほんとうは頭のすみでずっと思っていた。獣の目。言葉の通じない目。あの、ひとつの理性が飛んだ目は、すこしだけよかった。私は痛めつけられるのを好むたちではないが、あまり見たことがない物を間近に見た、と思う。
 よかった、などと思っていると、引きよせてしまうものらしい。
 目前で立ち止まった足に目線を上げると、マンゴージュースなんて間の抜けたものを手にしたあの客が驚いた顔でたちすくんでいた。色の褪せたジーパンをはいて、おそらく旅行の荷物が入っているのだろう鞄を背負って、なんだか普通の通行人の顔をしている。
 見つめ合ったまま数秒が経って、私のほうが先に口を開いた。
「二度と来るなよ」
 よかった、と脳の一端で思っていても、やはり傷を負わされた相手には、怒りが先に立つ。男は目線をさまよわせた挙げ句、すみませんでした、とちいさな声で答えた。服を着ているときのほうが、だいぶ若い顔をしている。もしかしたら年下かも知れない。
「最悪です。痛くて右腕上がらないもの。なんで噛んだの」
「いや、……急に。俺、いつもはあんまりああいうことないんですけど、ジウさんの首を見てたら、ぐぁっと。……本当にすみませんでした。反省してます。傷、だいじょうぶですか?」
「だいじょうぶなわけ、ないでしょう。痕、残りましたとも。ほら」
 シャツの襟をひっぱってみせると男は顔の筋肉を引きつらせた。自分でつけた傷に、自分で驚いている。
 男の物腰は理知的なぐらいだった。落ち着いたトーンの声で、ゆっくりと話す。育ちも良さそうだ。それなのに、噛んでしまうのか。止められないのか。
 黒い、黒い海が。この、ありふれた男の中に横たわっているのだろうか。咄嗟に、情事の最中の女の首に噛みついてしまうような。  そう思って、なんだか可笑しくなってきた。許すわけではない。痛めつけかえしてやりたくなった。
「手を出して」
 つぶやくと、男は黙って私の前に腰を下ろし、骨張った手を私の前に差しだした。カンがいいのだろう、なにをされるのか、わかったような目をしている。
 私は男の手をつかみ、親指のつけ根の柔らかい部分に歯を立てた。男の目を見る。男は静かに見返してくる。ジュースの温度に冷えた、肉の薄い手だった。犬歯が骨にあたる。徐々に噛む力を強めた。皮膚は切れない。そう簡単には、切れない。
 男のまなじりが震えた。骨っぽい人差し指が痙攣するようにはねる。それでも彼はなにも言わず、私も顎の力をさらに強めた。押し潰された血管が歯の下でびくびくと震えている。
 より強く噛もうとするほど、ぬるりと冷えた嫌悪に背を撫でられ、両腕が総毛だった。獣を真似て人に歯を当て、傷つけようとすることはおそろしく気持ちが悪い。それなのに、私を噛んだ瞬間、この男の目には躊躇の欠片もなかった。噛みちぎるのも厭わない、林檎を噛むのとおなじ目をしていた。
 私の耐えうるぎりぎりの線まで噛み続けても声を漏らさなかったら、名前ぐらいは聞いてやろうか。

 男は市季(シキ)と名乗った。なんかちょうだい、とねだったら、市季は他の国で買ったものだという花の柄の入った紙石鹸をくれた。私はそれをしばらく眺め、匂いを楽しみ、舌で舐めて、最後に裏庭に埋めた。なくしたくないものは埋めることにしている。はじめに埋めたのが母だった。
 しき、石鹸を隠した黒い土に手を当てて一度だけつぶやいてみる。舌に残る、綺麗な音の名だと思った。けれど、すぐにわすれてしまうだろう。





 娼を生業にしていた母は、美しい女だった。骨の細い人形めいた顔立ちや、肉の薄い身体が色艶にとぼしいと言われる向きもあったが、光の加減で紫色にも見えた大きな瞳の不思議な潤みが、他のパーツの淡白と相まって絶妙な美を作りあげていた。母は、バスタブの中で客を抱く商売を長くしていた。
 父のことは、覚えていない。話されたのかも知れないけれど、わすれてしまった。記憶を掘り返せば、手をつないだ母の横顔ばかりがあふれる。
 母と一緒に、いろいろな町に移り住んだ。風車の並ぶ港町、赤い崖の縁にしがみついた家々の並ぶ炭坑、水に浮かぶ都市、高い塔に見下ろされた町。
 この町、すき? と母はよく聞いた。ちいさな私はよくわからず、その時々で目の前にあったものを相手に頷いたり、首を振ったりしていた。母はどんな返答にもそう、と頷き、つないだ私の手をゆっくりと揺らした。
 母はどの町にもするりと溶け込み、そのくせそこに根をおろすことがなかった。三ヶ月もすれば、行きましょう、と鞄に衣服を詰め始める。母の方に、土地に「染まる」意志がなかったように思う。
「どこにいきたいの?」
 いつか、母に聞いた。母はゆっくりと瞬き、すこし間をおいて首を振ると、ためしているの、と答えた。甘い角度で首を傾け、爪に塗ったマニキュアをかりかりと掻いて剥がしながら。
「ためす?」
「そう」
 曖昧に頷き、母は私の目を白いてのひらでやわらかく塞いだ。そんな記憶がある。

 旅の始まりは覚えていないけれど、終わりはすぐに訪れた。私が八つになった頃、母は体を壊し、旅は打ち止めになった。私たちは、母の療養のため、母の生まれた島へ帰った。陽の長い、石畳の美しいちいさな島だ。植物がよく茂っていて、船を降りた瞬間、ぐっと押し寄せた青く甘い空気に喉が鳴った。
 島の南端に家を持つ伯父は戸口から出て来るなり、水芭(ミズハ)、と母の名前を叫んだ。歩いてくる私たちを迎えるように両手を宙に浮かせ、しかし触れることはせずに下げた。しばらく立ちつくした後、彼はかすれた声で聞いた。
「どこかに行けたかい?」
 母は、いつもの母だった。耳に染みやすい声で、どこにも行けなかったわ、と息を吐きながら答えた。そのあとに会話が続いた気もするけれど、もう覚えていない。

「起きろ、ねぼすけ。風呂入ってこい」
 上下を黒のスーツに包んだ燕は、いつもよりも痩せて見えた。手に持った花束を私の頭の上で弾ませる。
「……おはよう、ござい、ます」
 眠気に頭を振りながら浴室へ向かった。時計を見ればまだ四時だというのに、気の早い夏の朝は窓の外で明け始めている。
 母の命日には、決まって燕が起こしに来る。冷水で汗を流し、私は燕に倣って黒いワンピースに袖を通した。「黒」が正統なのだ、と兵役に行って帰ってきた燕は言った。大陸で学んだ知識らしい。
 正統ってなんだろう、と思いながら、それでも私は燕の言うことは基本的に聞くことにしている。手を引かれ、海での遊び方や文字の書き方を教えて貰った時代の名残のように、素直に従える相手がいることは安心をくれる。頬に粉をはたき、眉を整え、淡い色の口紅を付ける。化粧をすると、私は母の若い頃にそっくりらしい。いつか、伯父が、なぜかひどく悲しげに笑いながら教えてくれた。
「おまたせ」
「ん」
 くわえ煙草を灰皿に押しつけた燕は煙を吐いて立ち上がった。慣れた足どりで伯父のアトリエを横切り、裏庭へ通じる硝子戸を開く。外は晴れていた。雨の日に葬ったのに、母の命日はいつも晴れる。
 燕に続いてサンダルに足をすべり込ませ、青草を踏んで柘榴の木の下へむかった。毎年一回、黒い衣服で向き合う庭は、毎朝毎晩に通うときよりも妙にかしこまっているような気がした。常には肌に染みいるような母の気配も、植物の気配もなりをひそめ、ただ白々しく、息をし咲いて枯れるだけです、と庭全体が言っているように見える。枯れて、土になって、ええ、あとにはなんにも残りませんとも。
 留め紐を解いた花束を、燕は母を埋めた塚の上へ散らしていく。
 命日の日が一番遠い。母に一番向き合うはずの日なのに、一番遠い。その死に正面から見つめるとき、死者は遠ざかるのだろうか。目を伏せれば、すぐ傍らにいる気がするのに。
 見上げれば、色味の薄い朝の空が青く染まっていく。燕は塚の前にしゃがみ、この島で一般に信仰されている神様の祈りを短く唱えた。  葬式の黒い服も、毎年必ず埋めた時刻に顔を出すことも、律儀に花束を持参することも。生死を区切る習慣を提示する燕に、ときおり、目を覚ませと言われているような気分になる。
 神に呼びかける習慣のない私は、祈っている彼の袖を引き、もう中に入ってお茶を飲もう、とこどものように誘う。いつも。

 テレピン油の匂いが伯父の匂いだった。いつも伯父の背後に立ち、背伸びをして、カンバスの手元と見比べた。裏庭、静物、そして、母。伯父の手は、まるで白い空間にいっぽんの道が見えているかのように、なめらかに、確信を持って世界を画布へ写し取った。
 島に帰ってから、母は静かに衰えていった。はじめの一年はそれでも立ち歩き、洗濯をしたり料理を作ったりしていたが、二年目からは伏せることが多くなった。三年目には、ひどく青白い顔をして、光にほどけてしまいそうなほどやわらかく笑った。
(わらわないで)
 母が、人から遠ざかっていく。人よりも、傍らの花瓶に生けられた百合の花に近しいものになってしまう。そんな気がして、私の頬を撫でる冷えた指に何度も息を吹きかけた。
「かなしいことじゃないよ」
 吐息に湿った指を揺らし、歌うように母は囁く。かつては鈴蘭の香水をつけていた細い首筋に、薬の匂いを漂わせながら。
   伯父は母の絵を描き続けた。母は、なにも言わずに伯父を見ていた。母と伯父の間には、どこか、同じ距離を置いて同じものを見ているような雰囲気があった。触れる点はなくとも、そのもののぬくみが近いような、そんな感覚。血の繋がった兄妹とは、そういうものなのだろうか。そう思いながら、私は母の痩せた腿に甘えてじっとしていた。
 沈黙の一瞬一瞬が、先に語れる言葉を一文字ずつ削いでいく。指のすき間から砂粒がこぼれおちるように、一秒がすぎていく。でも、なにを話せばいいかわからず、身を預けたまま、呼吸に上下する胸元を見ていた。奇妙に間延びした安穏。長く、しかし振り返れば短く、ぽかりとなにかが欠けている。
「……母さん、いいの?」
 このままで。このまま終わって。
「私にやってほしいことがあったら、なんでもやるよ」
 春の終わりの真夜中に聞いた。開いた窓から、雨の気配を含んだ風が流れ込んできていた。遠雷が空気をふるわせる。きっとすぐに雨雲がここまで辿りつくだろう。伯父は部屋に戻って眠っていた。
 長い眠りから覚めたばかりだった母は、湯気の立つ紅茶のマグカップを重そうに両手で支えて、十秒かけてやっと一口を飲み下した。
「やってほしいこと?」
「なんでも。前に聞いた、『ためしていること』でも」
 上手く舌が回らなかった。妙にもどかしく、喉がつかえる。こんなことを言いたいわけではない気もする。でも、それ以外に、母をこの世に繋ぎとめておく言葉がみつからない。
 母はゆっくりと瞬きをくりかえし、私を見た。真直に人の顔を見るのは彼女のクセだ。言葉の更に奥、瞳の底までもを見通そうとするような静かな視線を受けて、思いだす。娼をしていた頃の母は花束を貰ってくることも多かったが、頬を腫らしてくることもあった。その理由が不思議とわかった気がした。
 短い間をおいて、母は口を開いた。
「ためしていることはね、終わったの。昔、この島を出たとき、そのとき私が抱えていた問題をぜんぶ受け入れてくれるようななにかが、どこかにある気がしていた。私は若くて、ものごとの答えを外に求めた。けれど、逃げた先に辿りつく外には、なにもなかった。それがわかった。私のやっていること、やっていたことは、私のなかで終わる。ジウにやってもらうことは、ないわ。――わかりにくい話ね。ごめんなさい」
「母さんが抱えていた、『問題』って、なに?」
「それももう、終わったわ。あなたは知らなくて良い。……そうね、あとは、向こうで私の母、ジウのおばあちゃんね、に会って、お小言を貰って、それで全部。それも、私の人生の、話」
 幸せな話をしめくくるような、そんな口調で母は語った。私は泣いてしまいそうになった。どうしても、どうしても、なにかが悲しいほどに届かなかった。それは、別の身体と時間を持つ生き物同士が持つ、根本的な距離に似たものだったのかも知れないと、今では思う。母は、そんな私をあやすように笑った。
 寝台の縁にもたれた私の頬をつめたい手が撫でる。
「つよい言葉が欲しいのね。時間にも、距離にも負けないような。あの頃の私とおんなじ。――ジウは、いままで、私と一緒で、楽しかった?」
 急な問いかけに、私は言葉に詰まった。え、と口ごもって顔を上げる。母は唇を笑みの形にしたまま小首を傾げた。
「答えて、ジウ。これはね、あなたにしか教えてもらえないことなの。他の、誰からも答えを貰えない。私と一緒で、ジウは、楽しく過ごせた?」
「……楽しかった」
 たくさん、歩いた。
 町を見て、手をつなぎ、一つの寝台でまるまって眠った。いつも寝入りばなに額を撫でてくれる冷えたてのひらと、商売で客に歌うのだろう母の、歌い慣れたあまったるいこもりうたを愛した。
 いっしょに生きてきた。
「ありがとう」
 他に、なんにも、いらないわァ。夜に響く明るい声が続けた。
「一人の人が、他の人に出来る、たった一つのこと。そばで、いっしょに、出来れば楽しく生きること。すくないけどね、偉大なのよ。これが、母さんがずっと旅をして、ジウから教えて貰ったこと」
 とっておきの秘密を打ち明けるように、母は笑っていた。
 その翌月、白く冴えた朝に彼女は去った。紅茶を入れて、果物を切って、ごはんだよ、といくら揺り動かしても起きなかった。
「行っちゃった」
 伯父に告げると、彼は息が途切れた母の額に触れた。そっと、どこかその温度に脅えるような触れ方だった。やがて、噛んだ唇で弱くほほえみ、お祈りをしよう、と私を誘った。
 私は伯父を真似て手を合わせ、母の真白な横顔をみつめた。
 伏せられたまぶたと額に下りた、肌のさわつくような静謐が死だった。永遠と夜に通じるもの。いくら見つめていても、もう、目は開かれない。ほんとうに、驚いてしまう。もうなにを言っても、返事が返らないだなんて。母が私を「見る」ことが、この先何年、何十年経っても、永遠に無い、だなんて。
 唇を開いて閉じた。なにかを言いかけ、なにも言えることがないことに気づいてやめる。ほんの数ヶ月前には、学校から帰って、洗濯したシーツを畳んでいた母の背に飛びつけば、いくらでも話すことがあったのに。学校のこと、友人のこと、海のこと、道で見た面白いもの。そんなことを、とても楽しく話したのに。死に近しい人、死んでしまった人の前では、語るべきことが見つからない。ほんとうは、もっと、たくさんのことを、言いたいような気がするけれど、返る沈黙がおそろしくて舌が動かない。
 島の決まりでは、水葬だった。月の丸い晴れた夜に船で沖へ出て、大量の切り花と共に海へ送る。
「すこしずつ、遠くなってっちゃうね」
 葬儀の手順を聞いた後、ついポツリと口に出た。伯父の入れてくれた紅茶を啜りながら、暗い海に沈んでいく、自然を前にすればあまりにちっぽけな母の身体を思った。ワンピースの色が波間に消えたとき、どんな顔をすればいいのだろう。
 ポットを左右に揺らしていた伯父は手元を見たまま、そうだね、とちいさく答えた。
 日中、横たわる母の服装と寝台を整え、傍らに白い布を被せたテーブルを用意した。島の人たちがそれぞれ花を一輪ずつ持ってきてくれる。赤い花、青い花、白い花。テーブルの上で、夏の熱気にすこしずつしおれていく、この花達を葬儀のときに一緒に海へ放つ。
 一日が過ぎても、伯父は葬儀の手続きをしなかった。
 夕方に顔を出した燕は、赤い百合と一緒にさくらんぼを持ってきてくれた。大粒の実をざるにあけて洗い、水滴を舐め取り歯を立てると、プツ、と良い音を立てて皮が弾けた。まだ若く、酸味と土の香りが口内に広がる。小鉢に盛って伯父の部屋に持っていくと、カンバスに向かっていた伯父は憔悴した顔で首を振った。
「なんで、母さんを海にあげなきゃいけないの?」
 化粧ポーチから口紅と小筆を取り出し、色のうせた母の唇に赤を乗せながら聞いた。夜になっていっそう青白くみえる母は、あまりにおとなしくて、人形めいていて、まるで出来の悪い冗談みたいだった。勝手に頬へ触れても怒らない。すべりの鈍い筆が唇を潰す、それに文句も言ってくれない。
 母を挟んだ、向かい側の壁に背を預けていた燕は、私の問いに眉を寄せた。先日兵役の通知が来たのだという彼は、それまで乱雑に伸ばしていた髪を短く刈っていた。落ち着かないのだろう、涼しい後頭部を何度となく撫でている。
 私の問いにしばらく目線を宙へ浮かせ、燕は口を開いた。
「言いたかねぇけど、このまま留められるものじゃないだろう」
「……腐るってこと? そんなの、平気」
「な、わけないだろが、ばかもの」
 甘えた口論に眉を寄せた燕は、伸ばした手で私の髪を乱暴にかき混ぜた。無造作な扱いにすこし泣きたくなった。彼にはそういう才能がある。どうしようもない駄々も泣き言も許して、鼻で笑ってくれそうな。
「なんで」
「ん?」
「なんでみんな、なかったことになっちゃうの?」
 母は、確かに居たのに。
 母の時間は止まってしまい、それでも世界は安穏とまわる。目を閉じていたらすぐになにもかもが流れていってしまう気がする。なにか、大きな力を持ったなにかが、すべてを変えてくれたらいいのに。母の死も、伯父が母を描き続けることも、私の甘えた性根も、夏が過ぎていくことも、すべて、すべて。
 燕は黙っていた。黙ったまま、歩いてきて、私のこめかみへ唇を押し当てると、泣いちゃえ、とひそめた声で囁いた。

 次の日も、伯父は船を借りなかった。母の身体はアトリエへ移され、また伯父は母を描き始めた。紙面をこする鉛筆の音を聞きつつ、よわい雨が夏の庭を濡らしていくのを床に座ってじっと見ていた。
 部屋には早くも甘酸っぱい香りが薄くねばっこく漂いはじめていた。
 五枚目のスケッチを終えたころ、伯父は私に呼びかけた。
「明日、船を呼ぶよ。二人で、ちゃんと、さよならを言おう」
 やわらかな決意を静かに聞いた。
 硝子越しに透けた庭は青く潤んでいて、誘っているように見えた。
(神様はいない。魔法もない)
 母が死んでも、世界は変わらなかった。目の前に残されたものにまで、どうしてさよならを言わなければならないのだろう。どうして人は死を遠ざけるのか。
 雨は夜中にあがり、私は家を抜け出して燕の部屋の窓を叩いた。寝ぼけまなこを連れだし、生温い海沿いの道を並んで歩く。
「裏庭に埋めるの。伯父さんも、そうしようって。でも、あんまりにツライから、伯父さんはやらないの。手伝って」
 燕は目を細めた。ただ潮風をうるさがったのかも知れないし、ぜんぶ分かっていたのかも知れない。そのときの彼の表情を理解するには、私は幼すぎた。
 一言もものを言わない燕と二人で、柘榴の若木の根本を掘った。濡れた土壌はたやすくスコップの歯に砕け、むせかえるほどの水の匂いと、土の匂いと、花の匂いに目眩がした。二時間かけて掘った穴に花を敷き詰めて、そのうえに母を寝かせて、また花を被せた。顔が見えなくなる瞬間に息が詰まり、グ、と空気のかたまりを飲み下して土を盛った。足に、胸に、最後に顔に。
 ここならおふくろさん、さみしくないな。穴掘り男の、他愛もない一言に泣かされる。あまった花を盛り上がった土の上に散らす。
 また雨が降り出した。二人とも、泥まみれで、私は泥まみれついでに塚の上に寝転がった。またゆるみ始めた冷たい地面へ頬を当てる。おやすみなさい。さよなら、ではなく、そう言った。母さんはここにいる、どこにも行かない。なにかに反抗するようにそう強く思って、仰向けに空を見上げれば、雨がまっすぐに降り落ちてきた。
「なんか、聞こえた?」
 燕が片手を差し伸べてくる。目を閉じてみても、雨音が耳をたたくだけだった。なにも聞こえないよ。そう返して起きあがる。振り返れば、硝子戸に伯父の影が映っていた。





 踊れなくなったの。そうつぶやく踊り子が昨日の客だった。また、大陸からの旅行客だった。休暇を使って「ふらりと」この島を訪ねたのだという。
 女は、柚子の輪切りを浮かべた湯の中からつくりもののように整った爪先を持ち上げてみせた。足首のね、腱を切ったの。言いながら、薄紅に染まった爪がココ、とばかりに足首の一点を示す。
 痛みを呑んでいるとは思えないほど華奢な、白い足だった。預けられた足を抱いて、女の目を見る。しずかな、なにも答えを求めない目だったので、だまって傷を負った足首へ口付けた。見えない傷を舐め取るようにそっと、舌を這わせる。
 痛かったの。女はうわごとのようにバスタブのふちに頬を押し当てて囁いた。女の長い黒髪が湯の中でやわやわと肌をくすぐる。
 足の痛みにでも障ったのか、女は唐突に私の頬を平手で打った。
「……」
 一瞬身体が強ばったけれど、女の方が私よりもよほど追いつめられた顔をしていたので、好きにさせた。二度、三度。小気味よい破裂音が耳の中で反響し、数を重ねるうちに女の表情が歪んでいく。頬がじんじんと火照りだし、ろく、と数えたところで女の額を撫でてみたら、女は大きな声で子供のように泣いた。大輪の花が開くような無防備で美しい泣き顔だった。
 身体に残された傷を私はよろこぶほうだ。痛みが、時間がちゃんとそこにあったことを教えてくれる。そうでもないと、すぐにいろいろなことをわすれてしまう。
 踊り子に打たれた頬は心地よく腫れて赤味を残した。けれど、きっと、すぐに治る。二、三日もすれば、大抵の傷は癒えてしまう。水を飲み、肉と果物を食べ、身体は日々豊かに代謝を続ける。一年前の私と今の私では、身体を作っている物質がまるごと入れかわっている。
 代金に受けとった紙幣を引き出しへ仕舞い、私は余っていた赤ワインを瓶の口からごくごくと飲んだ。酩酊にまかせて布団をかぶる。意識を手放す間際に思う。
 お客のこと。肌を重ね、時には愛に似た言葉を交わし、打ち、打たれ、いまでは顔もわすれてしまった人たち。紙幣を受け取り見送った多くの人々の目の奥に、時折、途方もない海を見た。瞬くほどの一刹那、その海とまじわっていた。あの海はきっと、時間にも代謝にもあらがい、そのひとが生きている限りは在り続けるのだろう。
 あの、深い深い色が、この世のどこかにまだあるのだろうか。
 思うだけで、私にはそれを知る術も、力もない。

 二十二年間、生きてきた。その間に身近な人間が二人死んで、一人失踪した。この数字が多いのか少ないのかは分からない。もしかしたら、案外平均的なところなのかもしれない。
 死んだ人間の片方は母。もう一方は女友達。失踪したのは伯父だ。時が巡るうちに、いつのまにか、同じ屋根の下で寝起きする人間はみな居なくなってしまった。
 女友達は波留(ハル)という名前で、私よりも四つ年上、燕の彼女だった。波留は、この島で産まれ、この島で育ち、しかし親族の都合で私が名前も知らないような大陸に引っ越し、手紙が数往復したところで事故にあってあっけなく死んでしまった。波留の死後、私は彼女から届いていた葉書を庭へ埋めて、一晩その場に座り込んでじっとしていた。
 なぜか波留の顔や、声よりも、手を思いだしていた。彼女の手は指先が百合の花弁のように白く、みほれるほどやわらかな線を持っていた。ピアノのふちをたどる手。たまたまのぞき込んだ物陰で燕の頬を撫でていた手。そんなものばかり、思いだす。
 顔を思いだそうとすると、私が無理に作りだしたような笑顔ばかりが浮かんで、こまった。本当の波留が思いだせない。誰よりも近しかった燕なら、思いだせるのだろうか。
 でも。
 私だって、母の声が思いだせない。顔も言葉も、どんどん薄れていく。

 夏虫の声にひきずり起こされた。汗に湿ったシーツを掻く。夏の間、私はすこしでも涼の流れ込みやすい場所を、と伯父のアトリエに薄いマットを敷いて、そのうえでタオルにくるまって眠っている。開いたままの硝子戸のむこうから、庭の青々しい気配が漂ってくる。土の匂いが強まることで、私は気温の上昇と朝の訪れを知る。
 枕から顔を上げると、時計は昼を指していた。庭を見やれば、ブーゲンビリアの花群が濃い緋色を咲かせている。昔、伯父がよく手を入れていた花だ。冷蔵庫から水のボトルを取り出し、飲みながら素足で庭を歩く。足の裏に、日に温められた土のぬくみが伝わる。夏の土は温かい。人と似た温度を持つ。
 花が、強く咲いている。触れた指から染まっていきそうな色を前にしゃがみ込んだ。日が、眩しい。口角から零れた水が首筋をつたって胸へすべりこむ。まだすこし眠い。私は庭にしゃがんでいた足を伸ばし、庭に腰を下ろした。太ももの裏に湿気を含んだ土が貼りつくのを感じながら、身体を倒し、完全に地面へ横たわる。
 眠って、いるのだろうか。ちゃんと、この下に眠っているのだろうか。鉤の形に曲げた指を黒い土壌へもぐらせた。土の中は、表面よりもすこしつめたい。
「かあさん」
 呼びかけても、返事はない。
 かあさん。もう一度呼んだ。爪の間に土が入りこむ。花をあなたにみせたいよ。指を更にもぐらせた。波留の葉書も、もうきっと溶け入ってしまった。ちいさな虫が腕をこえて歩いていく。土は生きているものを溶かしてくれない。私もいつか、土に還ったら会えるのだろうか。あなたたちの声も、言葉も、肌触りも、おろかな私はわすれてしまったけれど、ほんとうにほんとうに好きだった。
 好き、なのに、わすれてしまう。きっと私も、あっけなく死ぬ。庭で死にたい。今までに埋めた、安心なもののなかに溶け入りたい。
 妄想のなかで、私は、ひんやりと濡れた、そのくせ芯の部分に熱をもった土のうえに横たわる。空気を含んだやわらかい土壌にずぶずぶと身体の側面が埋まっていき、肩、わき腹、乳房、と順々に呑みこまれ、やがてほの暗いなかへとっぷりと落ち込んでしまう。くらやみ、がそこにある。くらやみは猫の尾やうさぎの背や貝の欠片や珈琲豆や、そういうもので出来ていて、母や、叔父や、昔に別れたひとの体温であたためられ、なつかしい気配に満ちている。人のりんかくせんをとろりと溶かして私は土にまじわり眠る。
 私の死のイメージは安易にあまい。生きている今から、死ぬことを考えて、そのためにお金を貯めている。

 客の入っていない日だったので、シャワーを浴びたあと、ブーゲンビリアを一花ちぎって散歩に出た。
 町に人が多い。また一つ大きな船が着いたらしい。広場に色とりどりの天幕の張られた市が立っている。生の花を持ったまま人ごみに入るのを心細く感じ、他の道を選んだ。路地を抜けて、大回りをして海を目指す。だれかが水を流したらしい石畳が艶ひかり、サンダルの足裏をぴたりと濡らした。広場の屋台の食べ物を目当てに、野良猫が足元を駆けぬけていく。
 白壁の続く通りをしばらく行くと、燕の家の前を通った。燕は、家族と住んでいる。外に面した、ガレージを改造して作った作業所に人影はない。どこかでラジオの音が聞こえるので不在ではないだろうが、彼を外に呼び出すほどの用があるわけでもない。
 指先で赤い花を回す。午前に情緒が揺れていた反動で、なんとなくこれを見てもらいたい気もする。けれど、そんな、ちいさなこどものようなことはしたくない。あきらめて潮風の吹く方へ足を向けて曲がり角を折れたら、手に軍手をはめ身体から土の匂いを立ちのぼらせた当人と鉢合わせした。
「あ」
「よぉ」
 くわえ煙草の男は片手をあげた。
「どっか行ってたの?」
「畑行ってた。共有の」
 若い男の人たちがお金を出し合って土地を買い、野菜を育てている場所がある。燕はそれに参加していたのだろう。長く外に出ていたらしく、さも暑そうに首にかけたタオルで耳裏をぬぐっている。
「大将、今年の野菜はいかがですか」
「ああ、空豆がいっぱいとれる。いい感じよ」
「へー」
 おいしそう、と続けて、会話が自然ととだえた。二秒まって、燕は私の手の花を指さした。
「ブーゲンビリア」
「うん」
「咲いたのか」
 他愛もないやりとりにこころがほどけ、私はうなずいた。口が笑っていたのだろう、燕もすこし笑った。近いうちに飲む約束をして、別れた。
 堤防にはたくさんの人影があった。海沿いの道にも簡単な市が並んでいて、それを冷やかす人、散歩をする人、様々だ。大きな麦わら帽を被り、波間に糸を垂らしている釣り客もちらほら見られる。午後の日射しを反射して波頭が光る。
 堤防に座り、海に向かってブラリと両足を垂らした女の後ろ姿に、見覚えがあった。この島には不似合いに色の薄い、つくりもののように形の整った足を、白いワンピースのすそから惜しげもなくさらしている。
「こんにちは」
 呼びかけると、振り返った顔はやはり先日の踊り子だった。薄い耳を彩る、赤い宝石のピアスがきらりと輝く。踊り子は幼い仕草で足を揺らしながら、手にもった西瓜ジュースを啜った。
「こんにちは」
 平たんな声で彼女は答えた。ストローで西瓜ジュースをかき混ぜながら、私の顔を見つめた。こざっぱりとした、仄かにあまい表情をしていている。
「ほっぺた、この前はごめんなさい」
「だいじょうぶ」
「なら、よかった」
 余計な言葉を好まない人なのかも知れない。思っていたら、女はゆっくりと、聞き取りやすい声で言った。
「わたし、この島に住むの。住むことに、した」
「そう」
 彼女の中でなにがあったのかは知らない。けれど、私はこの踊り子の決定が好ましかった。それまでの生活や価値を捨てて、「次」を選べる生き物はすこやかで潔い。眩しいものを見ている気分になる。
 思いついて、手に持った花を女の耳元に差し込んだ。深いあたたかな黒色の髪に、鮮やかな赤がともる。ピアスの赤色と、女の抜けるように白い耳の色と相まって、すっ、とためらいなく調和した。
「きれい」
 ごく自然につぶやいた。
 女は花の感触を確かめるように指で花弁に触れ、首を傾げた。
「ほんとう?」
 発音がすこしおさない。本当は、まだ、泣きたいのかもしれない。私は問いに答えて頷いた。ちゃんと、言ってあげたくなった。
「踊っても、踊っていなくても、あなたはきれい」
 踊り子はうつむき、しばらくストローでジュースをかき混ぜていたあと、おもむろに片耳のピアスを外すと、私に差しだした。あなたにあげる、と澄んだ声が告げる。これからよろしく、にも聞こえ、私はピアスを受けとった。
 




 盛夏。針のように降り注ぐ真白い日射しに、庭は青く燃え立った。バスタブをアトリエに引きずっていき、繁る庭を傍らに冷水で満たして迎えたら、馴染みの港管理人の男は喜んだ。明るく笑う、気のいい男だけれど、背中に強めに指を埋めてくるのがクセで、いつも決まって中指と親指の痕が肌に残る。
 私はこの客がすこし苦手だ。年頃と背格好が、記憶の中の伯父に似すぎている。きらきらと昼の光を反射する水面を横目に、貰った紙幣を棚の引き出しに放り込んで閉じた。引き出しは、七分目くらいまで満たされている。
 午後にもう一本、お客が入っている。すこし休憩、と冷蔵庫から取り出した桃を囓っていると、かんかん、とうすっぺらいカスタネットの音が玄関から響いた。
「ゆうびんー」
 気の抜けた声が響く。知った相手だったので、素肌にワンピースを一枚重ねただけで戸口に立った。浅黄色の制服を着た背の高い男が、三枚の手紙を差しだしてくる。夏朗(ナツロウ)、と私は呼びかけた。
「チャイムって知ってる?」
「しらない」
 かんかん、と笑顔のまま夏朗は赤いカスタネットを鳴らした。
「どうせ、全部伯父さん宛でしょ」
「うん。三通」
「はい、どーも」
「なんか、すねてる?」
「すねてないよ。なに言ってんの」
「ジウ宛の手紙ってあんまりないよね」
「ないよ、そりゃあ。ちいさい頃から、旅に出てたもの。この島に着いてからは、ずっと動いてないし。島の知り合いが、わざわざ手紙書いたりも、しないでしょう」
「そっか」
「そっかじゃないよ」
 私は顔をしかめた。私がちいさい頃に各地を点々としていたこと、母親以外の家族を持たなかったこと。どれも、過去に何度も話したことだ。
 私の反応にかまわず(そもそも、夏朗は人の顔色などほとんど気にしない)、夏朗はまた口を開いた。
「手紙、欲しい?」
 こうしてまた、突拍子もないことを言う。
 いつも、やすやすと、何かの枠を破るようなことを言うから、そのままの言葉を返してもいいような気がしてしまう。じわり、と胸底にあたたかな欲が湧いた。
「欲しい」
「では、書きましょうぞ」
 くくく。喉を鳴らして低く笑い、夏朗は踵を返した。配達、と一言残し、眩しそうに郵便のマークの縫い取られた帽子を被りなおして駆けていく。つかめない男だ。いつも、いつも。近い距離で育ったけれど、思考の底をつかめた、と思った試しがない。
 私は三通の手紙を手に伯父の部屋へ足を向けた。アトリエの手前に位置する部屋の扉を押し開く。書物と絵画の道具が乱雑に散らばった部屋は、伯父がこの家を去った日から手を入れていない。つい先程まで人が眠っていたかのように、掛け布団の乱れた寝台もそのままだ。  外の光がブラインドに陰って差し込み、埃くさい部屋を照らしている。私は床の紙山に手紙を落とした。
 伯父が去ってからの七年間にたまった郵便物と、伯父が残していったスケッチが床にばらまかれている。散乱したスケッチはあるものは鉛筆で、あるものは木炭で、あるものは絵の具を直に指ですくい取ったもので描かれていて、どれもこれも見知った女の顔だった。
(母さん)
 笑う顔、彼方を見る顔、眠る顔。簡素な線でたどられたそれは、どれも、今にもまばたきをしそうな生々しさを持っている。描くことが、伯父にとってなにを意味していたのかはわからない。意味に結びつかなかったから、置いていったのかもしれない。
 この家では熱を持つものと冷めたもの、流れたものと留まったものとが混じり合っている。そして私はなにを拾い、なにを捨てればいいのかわからない。伯父の部屋もずっとこのままだろう。
 伯父とは三年間、二人で暮らした。

 母を埋めた次の日の朝、顔を合わせた彼は掘り返された庭については言わずに、朝ご飯にしよう、と言った。伯父は日中にまるで庭に近寄らないようになり、母の身体を掘り返すこともなかった。
 伯父はその後も、なにごともなかったかのように日々絵を描き、売り、寝起きして、過ごしていたように見えた。私と顔を合わせると笑顔をみせ、しかしわずかに目線を逸らす。けれど毎日きちんと食事を与えてくれ、年に合わせた服も不自由がないよう買いそろえてくれた。厭われていたわけでは、ないと思う。
 伯父が毎夜に庭に立ちつくしているのを知ったのは、二人の生活という日々の歯車が回り出して、すこし経ってからのことだった。唐突に目が覚めた深夜、庭の人影に気づいて音を立てないようにそっと覗いた。伯父は部屋の明かりも付けないまま、硝子戸の向こう側に立っていた。その背中は不思議と闇に溶け入りそうに、遠く見えた。

 二年目。伯父は私にすこし脅えた。母に似てきた、とつぶやく口元はなつかしさを示すよう笑んでいたが、その目の色が揺れていたのはすぐにわかった。
 十三歳になった私は、伯父の買ってくれた服を着て学校に通い、波留と一緒に海へ出かけたり、燕と夏朗が兵役から帰島した休日には、家業を手伝う燕の仕事場に入りこんで複雑な作業をこなす手元を見ていたりした。車のガレージを改造した燕の仕事場は海に近く、風が良く通った。夏朗もいて、二人で並んで、大型スピーカーの取り付けられたラジオを聴いた。なにも話さずぼんやりと、ソーダ水を吸いながら燕の背中を見ていた。
 そのときに見ていたシャツに浮いた汗の形や、曇り空の下、堤防で流行り歌を歌った波留の声がどこまでも広がったこと、大雨に慌てて家まで駆けたときの空気の匂いなど、断片的な記憶は今でも強く覚えている。
 陽の光を浴びれば浴びるほど、植物のように手足が伸びた。
「買いがいがあるね」
 そう穏やかに言って、伯父はまた新しい服を買ってきてくれた。植物の柄の入った麻のシャツを着て、ペンキのバケツを数個持って、頼まれた民家の壁に絵を描きに行く。その後ろ姿もよく覚えている。この島には、家の壁に好きな花や福を招く鳥の絵を描く習慣があった。伯父の家の壁にも、おおきな花の絵が描いてある。はなびし草、という名前だといつか教えて貰った。
 伯父が私の絵を描いたのは、ワンピースから伸びた足に血が伝い落ちた日の夜だった。私の身体の中に、あんなに色の強い液体がつまっていたのか、と驚いた。たまたま一緒にいた波留に血を受ける方法を教わり、股に布をはさんで、伯父に、こういう下着が必要になった、と告げると、伯父は目線を惑わせ一拍おいて、おめでとう、と私の頭を撫でた。他の言葉が見つけられないような言い方だった。
 その夜、湯上がりにアトリエに呼び出された。
「モデルを頼むよ」
 白い、大人びたワンピースを渡され、着替えてアトリエの椅子に座った。十五分間ほどじっとしていた。伯父はスケッチブックを手にしていたものの、鉛筆を動かさなかった。ただ、静かに私を見ていた。私は伯父の目を見て、額を見て、やがて紺色のシャツの、胸ポケットを見た。空気の粘度が上がって感じる。
「見られる」ことに圧迫があるなど、初めて知った。呼吸が苦しく、背にびっしりと、寒くもないのに汗が浮いた。伯父のシャツをみつめすぎて色が目の奥に焼きつき、視界がゆがむ。モデルはとはそういうものなのだろうか、と思っていたら、ありがとう、といとまを許され、部屋に帰った。
 次の日、学校から帰ると、テーブルの上に今までとは形の違う下着が五枚重ねて置いてあった。

 その後もときおりモデルを頼まれた。私はいつの間にか、母の服が着られるくらいの背に成長していた。もとめられるまま、袖を通す。スカート、ドレス、ブラウス、帽子。どれも、母の匂いがした。鈴蘭の香水と、いつもつけていたヘチマのコロン。
 幼い私は、嬉しかった。綺麗な大人びた出で立ちが楽しいのはもちろん、私は私なのに、母がかたわらにいるような気がして安らいだ。視線を前にじっとしているのも、回を重ねるうちに慣れた。伯父の目線が、次第に和らいでいったようにも思う。伯父は黙って、母を前にしたときのように微笑んで、週に一度くらいのペースで私を描き続けた。そんな日々がまた、一年続いた。

 初めて男と付き合ったのは十四の年が終わる頃だった。二つ年上の、カロク、という名の、珈琲豆と茶葉を売る店の息子だった。もう名の漢字はわすれてしまったけれど、彼が私にくれた銀細工の腕輪は庭のどこかに埋まっている。彼と別れたときに、埋めた。一緒に歩いた祭の屋台で買って貰った、花の文様がこまかに彫り込まれた綺麗な腕輪だった。
 それをはずしてくれ、と伯父はモデルの際、額を抑えて私に言った。なにかに苦しんでいる風だった。私は、迷った。腕輪は、文様違いでカロクとそろいで、お互いに、お互いがそばにいない間はずっと付けていよう、と約束していた。
「だめなの」
 幼い約束を漏らすのが気恥ずかしく、母のワンピースのすそに腕輪を隠すと、伯父は眉間のしわを深めた。しばらくスケッチブックを見つめたあと、しぼり出すような声で、今日はやっぱりいいよ、と告げた。
 アトリエを出る間際に振り返れば、伯父は夜闇の下りた庭へ目線をむけていた。身動き一つしない。肉の薄い背中がゆるく曲がっている。
 なにかを言おうと思い、でも、なにも言えずに唇を閉じた。叔父が、泣いていたらどうしようかと思った。

 次の晩から、枕元に気配が立つようになった。初めは夢のどこかでそれを感じ、しばらくして、扉が開くと伏せたまぶたの裏に意識が上るようになった。
 油絵の匂いで、すぐに伯父だと分かった。分かっても、伯父だと知っていたからそのままにじっとしていた。
(こわいものじゃない)
 そう、言いきかせた。
 ある日、頬に指先が触れた。私はとっさに呼吸を整えて眠っているフリをした。
 伯父の指は頬をたどり、首筋をたどり、一度ふっ、と離れて腕の内側をたどった。手首の、寝るときにも外していない腕輪へ行き着く。撫でられた箇所がこそばゆく、弱く鳥肌が立った。
 やがて腕輪へ触れていた指が離れ、もう一方の手が胸へかざされる。薄目を開けて、覗き見た。呼気に合わせて上下する乳房にてのひらがあたるまで、あと数センチの距離で。
 パン、と鋭く乾いた音がした。
 銀の刃先が伯父のてのひらから覗いた。月の明かりに、ひらりとさざめく。
「…………ミズハ……」
 唇を震わせ、伯父はナイフで突き刺した手を自分の胸に抱き込んだ。低い声が、祈りのように、母の名前を何度も呼んだ。
「伯父さん」
 私はタオルケットをはねのけて起きあがった。大きな肩へ手を当てて、伯父の手元をのぞき込む。弱く身を震わせた伯父は、私の手から逃れるように身をひき、ゆっくりと顔を上げた。穏やかな顔をしていた。澄んだ瞳の奥に、闇の色をした海があった。
「夢だよ、ジウ」
 しろい手に目元を覆われた。世界にあるものをカンバスへ自在に写し取る手だ。こわい夢はもうこない、だから、ゆっくりとおやすみ。声が続けた。
 血の匂いがする。手の闇の向こう側から、濃い、生き物の匂いがする。
 見てはいけない、と強く思った。伯父の手の傷も、涙も、ぜったいに見てはいけない。だから目を閉じた。まつげの動きで分かったのだろう、伯父の気配がすこしほどけた。肩へ手が添えられ、ゆるりと寝台へもどされる。まぶたの裏でタオルケットがかけ直され、やがて伯父の気配が遠ざかった。扉が閉まるまで、目を開けなかった。
 次の日、伯父は家のどこにも見つからなかった。早めの仕事にでも出たのか、とありあわせのもので朝食を済ませ、学校に行って帰ってきて、それでも伯父は戻らなかった。
 アトリエの血痕に気づいたのは夕方だった。赤茶けた、指先ほどのちいさな点が一メートル間隔で三つ、部屋の戸口からアトリエを横断し硝子戸までの一線をつくっている。
(裏庭)
 引かれるように庭へ出ると、奥の茂みの影で銀色のものが西日を反射して瞬いた。柘榴の木の下に赤い色の残った果物ナイフが置かれていた。
 一瞬、頭がぼうっとした。
 ナイフはそのままに室内へ戻り、伯父の部屋の扉を開くと、薄闇の下りた部屋は紙に埋め尽くされていた。布団の乱れた寝具の上にも、窓際にも、床にも、スケッチが散らされている。目を凝らすと、紙の一枚一枚になめらかな、あまりに美しい線が描かれている。黒、灰青、薄桃。鉛筆、クレヨン、絵の具、木炭。
 母、母、母。
 私の絵は、一枚もなかった。
 伯父は、私を見ながら母の絵を描いていたのだろうか。
 部屋のすみには、伯父が普段使っていた、皮の鞄が口を開けたまま放り出されていた。恐る恐る、鞄を手に取り、中を探る。常に持ち歩いていた小さなスケッチブックも、鉛筆も、家の鍵も、そのままだった。財布だけがない。
 まるで柘榴の木に添うように置かれたナイフが目の裏で銀色の光を放った。伯父は、どうして埋めなかったのだろう。土にはまじわれないものだと、思ったのだろうか。
 伯父はもう帰ってこないかも知れない。唐突にそう、思った。
 後日、伯父の失踪がちいさな島を騒がせ、港の管理人が失踪の日にやつれた出で立ちで船に乗り込む伯父を見ていたことが判明した。伯父は島から居なくなってしまった。

 こうして私は、一人になった。
 島の決まりでは家の所有者が十年間、申告なしに家を空けた場合は、島の管理者が家を引き取ることになっていた。そのまま家の権利を引き継ぐことが出来るのは直系の血縁者だけなのだという。引っ越しという選択肢もあったが、私は裏庭を手放す気になれなかった。私が手放したら、すべてがなかったことになってしまう気がした。母がここにいたことも、伯父が伯父の中の「なにか」から私を守ってくれたことも、母の名を、祈るように呼んでいたことも。
 十七の年から働きはじめ、伯父の所有の権利が切れる七年後に家を買い取ることを目標にした。いくつかの職を変え、やがて娼が一番、私に適していることを知った。私はおそらく、こころも身体も、受け入れる、という性質を持っていた。一度しか会ったことがない見知らぬ他人にも、皮膚はたやすく馴染んだ。
 カロクとは、伯父の失踪から一年経った頃に別れた。気質の明るい男だったけれど、私たちはおそらく幼すぎて、上手くいかなかった。  伯父のナイフは、柘榴の木の根本に埋めた。





「手紙」
 葉書を差しだした夏朗は、酒気に赤らんだ頬をつって得意げに笑った。良い具合にビールが回っている。日はとっくに沈んだというのに、草木の影でにんにんみんみんと鳴き続けている夏虫が、昼間の熱気を引き延ばしていた。私は、すこしでも涼気をと開け放った硝子戸のサッシにかけていた足を伸ばした。酒と、部屋の熱気に火照った素足を草へ触れさせる。部屋の明かりに照らされ、夜の裏庭は豊かに繁っている。
「手紙って、ポストにはいってるものでしょう」
 手紙を書くよ、という約束を果たすつもりらしい夏朗にそう返すと、彼はまぁまぁなどと適当に零しながら私の膝の上に葉書をおいた。宛先の面には「ジウさま」とこどもが書いたようなまとまりのない汚い字が四文字、でかでかと並べられている。
 文字書き教室の頃から、字の変わらない男だ。夏朗は私よりも六歳年上で、私が「低」クラスの時にはもう「高」のクラスを卒業する年頃だったのに、ときおり「低」のクラスに戻されていた、その理由がうかがえる。呆れて顔を上げると、夏朗はにこにこ笑いながら、さっきコンロで炙っていた小魚の薫製を美味しそうに囓っていた。酒宴の会場にしたアトリエいっぱいに、酒とつまみのもったりとあまい香りが充満している。サラミの脂にてかった指をティッシュでぬぐい、私は葉書をひっくりかえした。
 茄子。
 どこからどう見ても茄子だ。
 紫色の絵の具をべっ、と指にすくって塗りたくったような力強い茄子だ。字は下手だけれど、夏朗の絵はうまい。伯父の絵のような繊細さはないが、ためらいのない、みていて清々しい絵を描く。
「茄子?」
「そう、茄子」
「なにが茄子なの」
「昨日、焼いて食べた。おすそわけ」
「いや、全然おすそわけられてないよ。現物もってこようよ」
「ジウもなんか描こうよ。見たい」
 夏朗は、人の話を聞かない。そして、言動や行動の脈絡がつかみにくい。酔っぱらったときにはなおさらだ。けれどもとても腹立たしいことに、夏朗はいつもこちらに「否」と言わせない、乾いた明るい雰囲気を持っている。
 仕方なしに私は酔った頭を振りながら一度自室へ戻り、最後にいつ使ったのかも判然としない十本セットのクレヨンと画用紙を一束もってきた。
「……お前らなにやってんの?」
 台所で作業をしていた燕は、大皿一杯の焼き空豆をもってくるなり目を丸くした。呆れたような声を背に受け、ようやく私は我に返った。腹這いになってむき合っていた画用紙には、茄子どころか、トマトやキュウリ、蓮根、野菜から脱線して猫、魚、うさぎ、とつたない絵が描き散らされている。ふ、と目線をあげ、夏朗の手元を見れば彼の画用紙も似たようなもので、お題をお互いに出し合い、へただのうるさいだの言い合っているうちに、しっかり乗せられてしまった。
「お絵かき教室」
 辛うじて答えた私の目線に、くくく、と夏朗はにくたらしく口角を上げる。大皿を床におろした燕は、肩をすくめた。
「まあ、いいや。ほら、ガキんちょ二人、空豆が冷めないうちにすみやかに食え」
 焦げ目のついた空豆の殻を割る。一筋の湯気と共にこうばしい匂いが立ちのぼり、休戦となった。ほどよく火の通った実はさくさくとほぐれ、歯に心地よい。
「おいしい」
「旬のものだからな」
「それもそうだけど、燕の作るものは大抵おいしい。舌が慣れてる感じ」
「妙な褒め方だな」
 庭に向けて足を投げ出した夏朗は、げっ歯類のような生真面目さで黙々と豆を囓っては傍らに殻の山を築いていた。

 夏朗が眠ってしまったので部屋の電気を消した。月明かりのおかげで、飲んでいるだけなら不自由はない。完全にうつぶせになって眠る、寝苦しそうな背中にタオルケットをかけてやり、足音をころして歩き去る。硝子戸のふちに腰かけた燕は余った酒を舐めながらラジオをいじっていた。アンテナを伸ばしてチューニングを終えると、ちいさなスピーカーから大陸の歌番組が流れ出た。
「寝た?」
「カエルが引き伸ばされたみたいな格好で寝てた」
「熟睡のポーズだ。機嫌良かったからな、完璧に飲みすぎてやがる――煙草、いいか」
「どうぞ」
 私は灰皿代わりにしている小皿を燕へ手渡した。ついでに、眠る夏朗を振り返る。タオルケットの背はかすかに上下し、彼が生きていることを伝えていた。
「機嫌、良かったの? 夏朗。全然わからなかった」
 よく笑うことも突拍子のないことをするのも常のことなので、私には違いが分からない。長く行動を共にしている燕だから分かることなのだろう。
「かなり浮かれてた。ひさしぶりにお前と飲んだからな」
「気に入ってもらえてるんだ」
「じゃないと、お前の前で絵なんか描かないよ」
「そうなの?」
 絵を描くことがそんなに大きなことなのだろうか。聞き返せば、色の薄い煙を夜空へ吐き出し、燕は小皿に灰を落とした。色のともった火口で背後に眠る男を示す。
「そこに寝っ転がってる阿呆は死んだ人間を見る」
「……知らなかった」
「うん。たまに、町とか歩いてると紛れこむんだと。ホンモンの幽霊かは、知らねぇけどな。兵役時代に死んだ知り合いや、自分の親戚や、あと、波留のことも、見てた」
 ほんものの幽霊を見るのと、ほんものじゃない幽霊を見るのと、どちらのほうがさみしいだろう。酔って軋んだ頭でぼうと考えても、答えは出なかった。冷蔵庫から水のボトルを取り出して一口あおり、燕に差しだすと、いらない、と首を振られた。短くなった煙草を潰し、新しい一本をくわえながら、男は続けた。
「一時期、奴は絵を描くのに凝ってた。仕事もほっぽりだして、通りや海の光景や、とにかく人の集まるところをスケッチして、俺に見せるんだ。あってるか? って」
「あってるか?」
「たぶん、いらんものまで見えてないかって、聞きたくなるんだろうよ。自分は何を見ているのか。俺の目と、答えを合わせようとした」
 光景を想像し、うっすらと寒気が背を伝った。暗い、底のない縁をのぞき込むのに似た気分になる。
「なんだか、かなしい」
「まあ、難しいところだな」
「それで、どう答えたの? 教えてあげたの?」
「いや、俺の答えはたいしたことなくて。俺の目が正しいなんて誰が分かるんだ的なことを、言った」
「……煮え切らないこと、言うなあ。言われた後に、また迷いそう」
 首をすくめ、燕はくつくつと喉の奥で笑った。
「でも、その時は、そう思ったんだ。正しかろうと正しくなかろうと、見えるんだったら、しょうがねぇじゃん。俺だったら、そこで受け入れる」
「それで、夏朗は?」
「さあ。とりあえず、絵を描くのはやめてたように見えた。俺の考え方に愛想が尽きて、俺の前では描いてなかっただけかもしれんが。……だから、さっき、お前と一緒に描いてて、驚いた」
「……へええ」
「お前ら、俺から見ればどこか似てる。同じところで立ち止まって、考えてる気がする。だから、きっと、嬉しいんだよ」
 まったく、気づかなかった。重ねて床に置いたままになっていた画用紙の束を引きよせる。月の光に、色の強い野菜や動物が、生き生きと浮かび上がる。彼の見る世界は、こんなに鮮やかなのだろうか。
「私、夏朗の絵、好きだよ」
「うん。悪かねぇよな」
「燕も、みたかった?」
「なにが」
「波留の幽霊」
「いいよ。余計にかなしいだろ、そういうの。そういうのは、お前らにまかせる。俺は気が小さいから、うまい枝豆の茹で方とか、効率的なテレビのバラし方とか、我が家に伝わる由緒正しい洗濯物の干し方とかで、いいんだ」
 ゆらりと煙草の煙が揺らぐ。燕とは私は、違うものだ。夏朗と私は、確かにすこしは近しいのかも知れない。けれど、やっぱり、別のものだ。私は、波留の幽霊なんて見えない。母の幽霊も。
 土はなにも答えてくれない。
 私の問いかけには、きっと、私の答えしか返らないのだろう。
「これか、ブーゲンビリア。すごいな、真っ赤」
 煙草を押し潰し、燕はサンダルに足をすべりこませて庭へ出た。骨張った指が、闇を照らす赤い花弁を撫でる。
 ふと、薄闇に立つ背を見て目眩がした。伯父がかぶさる。母がかぶさる。みんないなくなってしまう、なのに、日々は続いていく。燕は、あの、美しい踊り子は、どうして、健やかに「捨て」てしまえるんだろう。
 私は過去と今とが切り離せない。上手に「さよなら」が言えない。

『二人でちゃんと、さよならを言おう』

 伯父が、青ざめた唇でそう誘ってくれたのに。
 あんなに大きな決意を孕んでいた言葉を、私は埋めてしまった。でも、流れ去ってしまうものは恐ろしかった。人が、どこまでいっても一人であることを理解してしまいそうでこわかった。
 目の奥が絞られるように痛む。喉奥が痙攣し、呼吸がつまった。ヒ、とかすれた声が漏れだす頃、目の前に燕がしゃがみこんだ。
「やっぱりお前も、よくわからんわ。酒飲んで泣くな。ひからびるぞ」
 苦笑を含んだ低い声が耳に染みる。大きな手に涙をぬぐわれ、私はいっそう泣きたくなった。ぱたぱたと硝子戸のサッシに水滴が落ちる。
「燕、死なないで」
「なに言ってんだ、そう簡単に死ぬか」
「死なないで」
「お前が死ぬまで、死なないよ」
 他愛もなく言い放たれた言葉に虚をつかれ、思わず顔を見あげた。燕はいつもと変わらない、愛想のない顔をしている。ふいに、思った。
 つよくなりたい。  いつか、この庭を捨てられるほどに。  おなじ場所に生きる人々と、豊かに暮らしていけるくらいに。  そして、いつか、目の前のあたたかな男が動かなくなってしまったときには、ちゃんと「ありがとう」と「さよなら」を言い、次の日も笑って生きていけるようになりたい。息を大きく吸いこみ、泣くのをとめた。ひく、と喉がうごめく。心臓が深く脈打ち、体の中で、血の流れる音が聞こえた。
 夏が過ぎても雪が降っても呼吸を止めない、私はきちんと、かなしいくらいに、一個の完全な生き物なのだ。瞬きで涙を払い落とせば、夜の庭が静かに息づいている。あまたのものが私と同じく、吸って吐いての呼吸をしている。
「さて、片づけするか」
 私の頭をぽんと撫で、燕は部屋の照明をつけると床に散らばった菓子くずをひろいはじめた。私は空豆の殻の積まれた皿と汚れたコップを腕に抱え、眠る夏朗をまたいで台所へはいり、皿洗いをはじめた。

 白花(シラハナ)ってよんで。そう言われた。
「え?」
 思わず聞き返す。西瓜ジュースのストローをくわえ、踊り子は形の良い唇をすぼめた。半透明の筒の中を赤い液体がつるっと上り、また下がる。海沿いの道のベンチに腰かけ、麻のワンピースを潮風にはためかせながら屋台のジュースを飲む彼女は、ここ数日のうちにすっかり島へ馴染んだ様子だった。目を凝らせば血の色が透けてしまうのではないかと思った白い肌も、うっすらと日に焼けてきている。話では、町の、スープを専門に扱う店で働きはじめたらしい。いまは接客が主だけれど、たまに鍋のあつかいも教えてくれる、と平たんな口調をわずかに弾ませて教えてくれた。
 そこでいきなり、白花だ。
「白花って名前だったの?」
「白花になったの」
 踊り子がこの島に訪れ、私の客になった際に名乗ったのは、まったく違う名前だった。おいしい、と一言つぶやき、白花は舌で口内をぬぐうように頬をふくらませる。西瓜ジュースが、気に入ったらしい。
「変えたの」
「……なぜ?」
「なにか、思い切りが欲しかった、かな」
 気分のきりかえ。言って、目を伏せる、そのまつげがとても長い。私ははあ、と曖昧な相づちを打ちながら林檎ジュースを啜った。皮ごとまとめてすられているため、コップのなかの液体には赤い欠片がまじっている。
 すこし間をおいて、白花はまた口を開いた。
「たくさん、力も時間もついやしてきたから、執着も、たくさん残っちゃった」
「踊ることに?」
「そう」
「それは、愛情じゃ、ないんだ?」
 言葉を切り、白花はきっかり二秒、唇を結んだ。
 やがて、ためた空気の分の思いきりを込めて言う。
「ない。愛じゃ、なくなっちゃった。すくなくとも私はこだわればこだわるほど、歪んでいっちゃう感じだった。だから、名前を変えたら、ちゃんと変わろうと思って。でも、白花って名前になって、今まで出来なかった日焼けをして、火傷も怪我も太ることも、全然こわがらずに生活して、この空気のあまい島に住んで。踊り続けた場合と、おなじだけのイイコトは、『白花』にも、ちゃんとあるって、今は信じられるよ」
「すごい」
 素直に、思った。白花はやはり、すごい。白花はゆるゆると首を振った。
「ジウさんがくれた、言葉のほうがすごい」
「え」
「ううん、いい」
 一度、会話がゆるやかにとぎれた。今日も綺麗に晴れている。海の青は冴えわたり、波打ち際で水遊びをしている人がとても多い。
「白花」
 あらためて、呼んでみた。なんだか違う人を呼んでいるみたいな気分になる。水平線を見つめていた彼女は、生真面目にこちらをむき、はい、と返した。硬く、清潔な声にほんのすこし欲情した。一度だけ腕に抱いた、髪の生え際から足の先まで真っ白だったやわらかな身体が、手足の先だけ日に焼けた様を想像する。
「ジウさんは、漢字はないの?」
「ジは、時間の時に草冠をつけた蒔。草木の種をまくって意味の。それに雨をつけて、ジウって読ませるの。でも、恥ずかしいからあんまり人に言ってない」
「……地面に種を蒔き、そこに雨が降る。きれいな名前、なのに」
「たいそうすぎて、なんだか、モノに出来てない感じ」
 苦笑すれば、白花もわずかに口角を上げた。
「名前なんて、そんなものだと思うけど、ジウさんが、いつか、『モノ』にしたって思えるようになったら、楽しいね」
 ジュースを飲み終え、二人並んで歩きだした。私の家と、彼女の店との分かれ道までを一緒に行く。
 指の先が、当たる。白花を見る。白花はちらりと考える顔をして、私よりも温度の低い指をからめてきた。きめの細やかな肌が、別の生き物のように触れているのかと思うほど柔らかい。白花は、私が馴染みきるには、生きる力のようなものが澄みすぎているように思う。私とは違う、だから、歯を立ててみたくなるのだろうか。乱暴な気分がふと猛り、あまく絡んだ指先をゆるりと汗が濡らしていく。





 雨の日には、よくわからなくなってしまう。私がどこにいるのか。今がいつなのか。これからどこへ行きたいのか。こめかみの奥にもったりとした熱が溜まりだすのをきっかけに視界が揺らぎ、まぶたの裏で緋を基調にした色彩が痛みと共に氾濫する。
 降っちゃったので駄目です無理ですごめんなさい。這いつくばって仲介所へ電話を入れると、新しい彼女が出来たのだという店主はごきげんで休みをくれた。受話器を置き、息を吐き、心臓の鼓動とあわせて軋む頭痛に、しばらく耐えた。床を伝って、雨の音がぱたぱたと体の中に響いてくる。
 コトン、と玄関の戸に添えられた郵便受けで、音がした。気を紛らわせてくれるなら何でも良かった。体を起こし、玄関で郵便物を取り出す。手紙が二つ、伯父宛。もう一枚は、葉書。
「ジウさま」
 進歩のない字に呼びかけられ、ひっくりかえすと、アクリル絵の具で描かれたまっ黒いうさぎがこちらをむいた。可愛いけれど、相変わらず、よくわからない。説明書きもない。今度はうさぎでも食べたのだろうか。思いながら、放り出した。

 午後になって、雨は増した。熱のこもった枕やマットがうとましく、床に寝ていた。すると今度は床づたいの雨音がうとましい。両耳を塞いでごろごろと悶える。身体の真ん中が、からっぽになっているような気がした。ちがう、正しくは、ほんとうはいつでもからっぽなのだけれど、普段は、目を閉じている。その目が、開いてしまう。妄想の中で私は一本の硝子製の筒になり、時間と人がまんなかを通り抜けていき、最後はからっぽになって疲労劣化でパキンと割れる。私の中身は、ぜんぶぜんぶ通り抜けてしまう。いとおしかったもの。おぼえておきたかったもの。無理に留めようとすれば形が変わる。陳腐に、色をうしなう。
 だから、ぜんぶ埋めた。私の中身はきっとあそこにある。最後に身体を埋めておしまい。それでなにもかもが足りる。そう信じ込んだ、けれど、ほんとうにそうだろうか。
 海を見た。人の目の中に底のない海を見た。それをのぞき込んだときに返る、肌の粟立つような感覚が、自分以外の誰かが確かにそこにいたことを教えてくれる。けれど、身体が死んでしまったら、あっけなく終わってしまう。苦悩も決意も、その人のなかの海も、かんたんに流れ去ってしまう。母のこもりうたを聞いた。あなたがねむってもここにいてあげる、そう、あまく告げる歌を聞いた。愛された。愛されていた確かな記憶がある。けれど、歌声が思いだせない。居たのに、居なくなってしまう。薄れてしまう。流れてしまう。
 母を埋葬する手は凍えた。花の匂いを嗅ぐたび、長い間、吐き気がした。どんなにどんなに願っても時は止まらない。水がひらいた指の間からこぼれ落ちていくように、留められない。
「馬鹿げてる」
 何年前の話だとおもってるんだ。こどもだったあの頃とは違う。健やかに生きなければいけない。けれど、なにが違うのだろう。埋葬の瞬間と今現在とで、どこが、なにが、違うのだろう。
 だらしなく呻いていたら、チャイムが鳴った。こめかみを固いモノで殴られたみたいに、浮遊していた意識が身体へ引き戻される。とっさに手の甲で涙をふき、玄関へ向かった。起きあがった拍子にぐぁん、と視界が歪む。
 扉を開ければ、黒いうさぎがチャイムを押していた。まだこどもだ。手足の先だけちょぼちょぼと白い毛が生えている。
「……うさぎ」
「風呂借りに来た」
 泥に汚れたうさぎが片手をあげて挨拶する。
「なんでわざわざうちに来るの」
「俺んちの風呂、水道管が逆流してエライことになったウサ」
「勝手にどうぞ」
 苛立ちに任せて言い捨てたのに、うさぎの陰から満足げな笑みをのぞかせた夏朗は、おすそわけ、と茄子のつまったビニール袋をよこした。
 雨音に、シャワーの音が混ざる。同じ水音なのに、耳への浸み方がすこし違う。枕に顔を押しつけてそれを聞いていた。しばらくして、水気の多い気配がこちらへやってくる。
「お借りしました」
 自分も湯をかぶったらしい、身体を湿らせた男は、寝ころぶ私のかたわらにどっかと腰を下ろし、あぐらを掻いた上で抱いたうさぎをタオルでふき始めた。布の合間から、ちいさな前足が、耳が、ふくふくと呼吸をする鼻先がのぞく。
「そのうさぎ、なに?」
「家の前にいた。保護、捕獲。――燕に聞いてたけど、ほんとうに雨の日は調子悪いんだ」
 一拍置いて、ようやく自分のことを言われているのだと分かった。
「なに、めずらしい。心配してくれたの?」
「ううん、見に来た」
 あっけらかんと言い放たれ、顔が強ばった。こちらの表情を楽しむようからからと背を揺らし、夏朗は身体をふき終えたうさぎを部屋に放つ。毛のへたった、別の生き物のように痩せた黒いかたまりは、気ぜわしく濡れた毛並みを舐め、ときおり思いだしたようにひょん、と跳ねる。
 手元に来たので、寝転がったまま腕を伸ばして抱き寄せた。ちいさな心臓が速い速度でうごいている。うさぎの身体は、熱い。抱いたこちらが心細くなるくらいの熱さだ。背をつかんだ指がすぐに骨へ触れて、その下の内臓までたやすく握れてしまいそうで、ひどく頼りない気分になる。
 頭痛がやまない。けれど、すこし呼吸が楽になる。温かいものに触れ、ようやく私は自分の腕が気持ち悪いほど冷え切っていたことを知った。
 夏朗はもう一枚用意していたらしいタオルで、自分の髪をばさばさとぬぐった。うさぎを抱く私を見て、ひひ、ともう一度笑う。なに、と言いかける前に、骨張った手が私の額へ当てられた。
「熱があるよ」
「うん」
「つまらない」
 ほんとうにこの男はロクな事を言わない。にらみつけると、夏朗はいっそう楽しげに口角を上げた。つかみどころのない微笑みを見上げ、ふと、思った。
「なにか、見えるの?」
 当てずっぽうで言った。
「なにも見えないよ」
 間髪入れずになめらかな声が答える。こちらをのぞき込む男の目の端がかすかに震えた気がしたけれど、気のせいかも知れない。どうしようもないことしか言わない薄い唇は笑っている。
「頭、痛いの」
 うったえてみた。私に見えないものが見えるのだという彼なら、答えをくれるかも知れないと、すがった。
 夏朗はゆるゆると首を振る。
「俺の見えるものは、俺のものでしかない」
「教えて」
「だめ」
 あやすような口調に苛立ち、腕を伸ばして座る男の膝先を小突いた。思ったよりも力が入ってしまい、握った拳に骨の感触が残る。
 開いた腕から、うさぎが逃げた。
「いってぇ」
「こども扱いするからだ」
「こども扱いされたがってるんじゃん」
「なにそれ」
 意地悪く笑う声が腹立たしくて顔を背けた。寝返りを打ち、反対側の壁を見つめる。こちらの内心などなにも構わない口調で、夏朗はのんびりと続けた。
「いつか、ジウが雨の日でも平気になったら、話してやるよ。遠い国の、お伽話の一つとして」
「……お伽話、じゃない、本当のことかも知れないのに。私には、なにも見えないし、聞こえないから、教えて欲しかったのに」
 彼の見ているものが本当の幽霊なら、私にとっての、すべての答えがそこにある。言い募れば、声の調子だけで、彼が否、と告げたのが分かった。
「お伽話だよ、自分以外の人間の話なんか、みんな」
「そんなのわからない」
「羊肉のニンニク炒め」
「は?」
「茄子とトマトのパスタ、オリーブの塩漬け、オレンジ二個、あと、食堂の海鮮チャーハン。これが俺の、昨日の食事」
「なに、急に」
「ジウは?」
 桃、スイカ、缶詰のコーンスープ。考えたくなくても、夏の食欲不振に甘えた貧しい食事が脳裏をよぎる。けれど、質問のあまりの突拍子のなさに、口にはしなかった。夏朗は気にせず、機嫌の良い口調で先を続ける。
「たぶんね、この違いが二十数年間、積み重ねられた分と同じだけ、遠いんだと思うよ。お伽話は」
「……よく、わからない。哲学?」
「いや、ぜんぜん。――幽霊らしきものが全く見えない。なにも聞こえない。それでちゃんと、ジウの答えなんだ。俺の話なんか、要らない」
 物言わぬ土も、答えを返しているのだと彼は言った。
 のっぺらな壁を見たまま、私は言われた意味を考え続けた。見ているものも、感覚も、生きている時間すら、孤独に等しく隔てられたそれぞれの生き物について。
「夏朗」
「ん?」
「人が人に出来ることって、なに」
 今度は答えが返るのに間が空いて、私はごろりとまた寝返りを打ち、夏朗の方を向いた。
 神妙な顔でてのひらにうさぎを招いた男は、手遊びのように黒い毛玉を私の腹の上に置いた。速い呼吸が、ちいさな爪が、薄い布地を通して肌をくすぐる。傍らに、違う心臓を持つ生き物がいる、という感覚。いとおしい、うっとうしい、あたたかい、おぞましい、きずをつけたい、つつまれたい。こまかな感情が入りまじり波音となって胸内を濡らす。
「なにもない。そばで、生きていることぐらい」
 いつかの母と同じ答えに、私はまばたきを繰り返した。あのときには、幼かった私には聞けなかった問いを口にする。
「それは、それだけなのは、さみしいこと?」
 夏朗は表情を変えずに、黙ってうさぎの背を撫でた。
「さみしくない」
 一秒をおいて、低い声が言い足した。
「祝福に近い」

 遊ぼうよ、との誘いに応えて重い体を起こした。この誘いのために、顔を出してくれたのかも知れない。甘いことを考えていると、思いがけない提案をされた。
「うさぎの小屋?」
「俺、そういうの苦手なんだよねー」
 小屋を、作りたいのだという。確かに私の家には、伯父が使っていた美術道具が残されている。彫刻に用いられる木材もある。ペンキも、至極都合良く、ある。
「苦手って、私だってそんなの苦手だよ。燕に頼めばいいのに」
「苦手なもの同士でも、二人いればなんとか作れそうって、思わない?」
 曖昧な笑顔に押し切られた。アトリエの床全面に新聞紙を敷き詰めて、ベニヤ板を運び込む。夏朗が大雑把に決めた設計に基づき、切って、釘でつないで、やすりをかける。屋根は青色で塗った。それしか、乾きっていないペンキがなかった。
「名前は?」
「ん?」
「うさぎの」
「ああ……」
 頬に青いペンキをはねさせた夏朗は、宙を見つめて二秒うなった。
「夜に太郎で、ヨタロウと読ませる」
「まんまだ」
「いいんだって」
「夜太郎ね」
 私はハケで小屋の壁に「夜」と大きく書いた。当の黒うさぎは、部屋の隅で菜っぱの欠片を囓っている。木片やペンキにせっかく洗った毛並みが汚れてしまわないよう、食べ物で遠ざけられている。
 小屋が完成したのは夜がすっかり暮れた頃だった。単純な作業に没頭していたため、時計を見て、時間の経過の早さに驚く。それを告げれば、夏朗はからからと笑い、汗の浮いたTシャツで首筋を拭った。
「腹へったな。茄子、焼いたら食う?」
「食べる」
 きしむ腰を叩いて立ち上がった。台所に向かう背を見送り、完成した小屋の前でうさぎを抱きかかえる。二秒でつけられた簡素な名前が、このうさぎと他のうさぎを大きく切り離す。よたろう。呼びかけて前足を揺らした。
 ふと思いついて、裏庭に続く硝子戸を開いた。水気の多い冷えた空気が蒸した室内に流れ込む。てのひらを闇に伸ばしても、水滴はまるで落ちてこない。雨がやんだことにすら気づいていなかったのか。野菜の焼ける匂いに腹が鳴り、大きく夜の気配を吸いこめば、胃の底が落ちたような空腹を感じた。





 涼しい風が、たまにふく。先日の雨以来、夏の気配が薄まっている。庭の柘榴の実が日を追うごとにふくらんでいく。赤い、乾いた色をした硬い実だ。
 長らく音信の無かった伯父から長い手紙が届いた。失踪の謝罪と、近況として北の大陸の施療院にいること、長く体調を崩し、失踪後の記憶が混乱していてなかなか手紙が出せなかったことなどが綴られていた。端正な筆跡をなぞりながら、私はもう、伯父の顔すらもおぼろげであることに気づいた。悲しげに笑う、身体の線の細い人だった。それだけ、覚えている。
 最後のページで、思わず読む手が止まった。家のこと、裏庭のことが書かれていた。

 +

 家の権利を蒔雨に譲渡するよう、島の役場に手紙を書いておきました。住み続けるもよし、売り払うもよし、好きに扱ってください。売り払った場合は、ちょっとした財産になると思います。
 長く離れていたおかげか、それとも年を取ったせいか、私はもうあの庭が無くても、きちんと二本の足で地面を踏み、生きていけるようになりました。
 私はこれからこの北の地に留まり、今日まで私を生かしてくれた人々への恩を一生かけて返していきたいと思います。それもまた、豊かな日々になると信じています。

 最後に一言だけ、私が今までの生で得たことを書き残して蒔雨に贈りたいと思います。

 時間は流れ去るのではなく、常に貴女の手となり血となり心臓となり、そこにあります。
 だから、さみしいなどと思わないでください。

 貴女の健康と、限りない幸せをこころから願って。

 +

 三回読んだあとに、手紙を居間の机に残して伯父の部屋へ向かった。母の描かれたスケッチを一枚一枚ひろい集める。
 伯父の時間。私が執着した時間。紙を一枚すくい上げるたび、止まっていた空気が動き出す。
 時間が流れたのだ、と思った。
 お葬式をしよう。ずっと放り出していた、お葬式をしよう。また物置からスコップを持ってきて穴を掘った。一人だったから、だいぶ時間がかかった。けれど、日が傾く頃には、腕で輪を作ったほどの大きさの穴が一メートルほど掘れた。
 掘り返した土壌から濃い土の匂いがわきたった。白い月を背に、無限のくらやみにむかって母のスケッチを一枚ずつ落とす。記憶の中の、花の匂いが立ちのぼる。
 おやすみなさい。
 あいしている。
「さようなら」
 口に出すと、胸の真ん中がじわりと痛んだ。同時に、熱い。私の中の、母が、答えてくれたのだろうか。思いながら、私は穴を埋めた。ざくざくと土の降り積む音が耳の底を刻み、ここちよい傷を残していく。きっと一生残るだろう。平たんにならした地面の上でもう一度祈った。
 ねむるものすべてがやすらかでありますよう。
 答えなどひとつも分からない。けれど、あともうすこし、歩いてくるから。どこかへ行き、なにかを慈しみ、四肢を充分に動かし、楽しみ、いつか、いつかの果て、さめない眠りの世界で出会ったら。
(そうしたら、土産話のひとつでもして)
 いきていることは、すごかったね、ってあなたと笑い合いたい。

 泥だらけの身体をシャワーで流し、町に買い物へ出た。新しいワインと生ハムのかたまりと夜に向かって艶光る夏野菜と湯気の立つバゲットと今日獲れたばかりの海老を一皿買い、飲もうよ、と燕と夏朗に電話をかけた。






                                                終